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播隆 ばんりゅう

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

播隆 ばんりゅう

1782-1840 江戸時代後期の山岳行者。
天明2年生まれ。生家は越中(富山県)の一向宗の道場。諸国修行の旅にでて山岳信仰をふかめる。文政6年(1823)かつて円空がのぼったとされる飛騨山脈の笠ケ岳に登頂し,ついで11年槍ケ岳に初登頂し,山頂に仏像を安置した。のち山道を開削し,頂上付近に鉄鎖をつけるなどした。天保(てんぽう)11年死去。59歳。

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朝日日本歴史人物事典の解説

播隆

没年:天保11(1840)
生年:天明2(1782)
江戸後期の山岳修行僧,槍ケ岳の開山者。越中国(富山県)新川郡河内に生まれ,名を岩松といい,生家は一向宗の道場であった。14歳のときに村を出て丁稚奉公し,19歳で出家した。摂津国(大阪府)天王寺,宝泉寺(浄土宗)の見仏に師事して得度し,岩仏の法名を授けられる。山城国(京都府)伏見下鳥羽の一念寺に移り,法名を播隆に改めた。念仏行者として諸国巡歴に立ち,3年後の文政6(1823)年,円空の開山した飛騨国(岐阜県)笠ケ岳の再興を果たす。頂上では西に雲海が広がり,落日が当たって燃え立った槍ケ岳の穂先を隠すと,虹の環が霧の中に輝き,阿弥陀如来御来迎が出現したという。同11年には八ケ岳開山を志し,中田又重郎を案内人にして登攀を遂げ,阿弥陀如来像を安置した。天保11(1840)年,槍ケ岳頂上から鉄鎖,鉄梯子を懸け下げて整備した。<参考文献>新田次郎『槍ケ岳開山』

(川村邦光)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

ばんりゅう【播隆】

1782‐1840(天明2‐天保11)
江戸後期の山岳行者。槍ヶ岳初登頂者。越中国(富山県)河内村生れ。生家は一向宗の道場であった。19歳で出家したが,その後巡礼の旅に出て山岳信仰による山の開山を志し,1823年(文政6)円空が登った笠ヶ岳再興を行い,次に槍ヶ岳開山を思い立ち,数回の登山の後,28年登頂に成功した。さらに多くの人の登山の便をはかって40年(天保11)頂上直下に鉄鎖をつけた。その帰途病に倒れ,大往生をとげた。その行跡は新田次郎の小説《槍ヶ岳開山》(1968)に詳しい。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

播隆
ばんりゅう
(1782―1840)

山岳行者、槍(やり)ヶ岳初登頂者。越中(えっちゅう)国(富山県)河内(かわち)村生まれ。生家は一向(いっこう)宗の道場であった。19歳で出家したが、その後巡礼の旅に出て山岳信仰による山の開山を志し、1823年(文政6)円空が登った笠(かさ)ヶ岳再興を行い、次に槍ヶ岳開山を思い立ち、数回の試登ののち28年に登頂した。さらに多くの人に槍ヶ岳を開くため40年(天保11)頂上直下に鉄鎖をつけた。この帰途病に倒れ大往生を遂げた。[徳久球雄]

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