一向専修を宗とする浄土教系の宗派を広く一向宗と呼んだ。個別的には《天狗草紙》(1296)の詞書に,〈一向衆といひて,弥陀如来の外の余仏に帰依する人をにくみ,神明に参詣するものをそねむ〉とあり,一遍の時衆を一向衆といっている。また,《一遍流義十二派略記》には,〈一遍上人弟子一向上人住江州番場蓮華寺建一向流義〉とあり,一向俊聖の一向派の徒を一向衆と称している。
さらに,親鸞を宗祖とする真宗の門徒もまた,一向専修を宗旨とするため一向衆と呼ばれ,時衆や一向派と混同された。本願寺第3世覚如の《本願寺親鸞上人門弟等愁申状》によると,1302年(乾元1)ころ,一向衆と号して諸国を横行し,放埒な行為を働く輩が禁遏(きんあつ)されたとき,本願寺門徒をそれと混同してはならないといっている。しかしこのころより一向衆という呼称は,むしろ親鸞の門流を指すようになった。52年(正平7・文和1)比叡山の衆徒によって破却された仏光寺の坊舎を,《祇園執行日記》は〈一向宗住居〉と記し,文明の加賀一向一揆の勃発について《大乗院寺社雑事記》は〈一向宗土民蜂起ス〉と記している。
本願寺は,一向宗と呼ばれることを嫌い,とりわけ蓮如は宗祖親鸞が一向宗という言葉を使わず,浄土真宗と称していることから,自己の教団を浄土真宗と主張した。しかし近世に至ってもなお,一向宗は親鸞門流の呼名として一般化していた。東西本願寺は1608年(慶長13),浄土真宗の宗名を用いたい旨江戸幕府に願い出,さらに1774年(安永3)両本願寺は専修寺(高田派),仏光寺(仏光寺派)を加え訴願した。しかし天台宗の寛永寺,浄土宗の増上寺に諮問した幕府は,増上寺の強硬な反対により許可しなかった。さらに本願寺は88年(天明8)にも願書を出し,宗名の改称に努めたが,幕府はついに認めず,89年(寛政1)と91年の両度新たな宗名は認めない旨両本願寺に達し,現状維持の方針を宣言した。宗名改称は,1872年(明治5)にいたってようやく政府に認可された。爾来,大谷派,高田派,仏光寺派は〈真宗〉,本願寺派は〈浄土真宗〉の宗名を使用している。
→浄土真宗
執筆者:北西 弘
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浄土真宗の別称。広義には一心一向に阿弥陀仏に帰依することを旨とする浄土教系の宗派をいう。中世には一遍の時衆(じしゅ),その系統を引く一向俊聖(しゅんじょう)の一向派,親鸞の真宗がそれぞれ一向衆とよばれていた。それらは混同されていたが,14世紀初め頃から真宗を一向宗とよぶことが定着し始めた。蓮如はこの呼称を嫌い,親鸞が用いていた浄土真宗を称することを主張した。しかし一向宗という名称の定着化は続き,室町中期・戦国期の真宗門徒による一揆は一向一揆とよばれた。近世に至り,東西本願寺は宗名を浄土真宗と改称することをしばしば幕府に願いでたが許可されなかった。その後,1872年(明治5)大蔵省から真宗と称すべき通達がだされ,宗名問題は決着した。
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…本願寺第8代蓮如は,浄土真宗を宗派名として意識し強調した。当時,真宗を一向宗と呼ぶものが多かったが,蓮如は1473年(文明5)9月下旬の《御文》の中で,〈夫当宗を一向宗とわが宗よりもまた他宗よりもその名を一向宗といへることさらにこゝろゑがたき次第なり。祖師聖人はすでに浄土真宗とこそおほせさだめられたり(中略)当流のことは自余の浄土宗よりもすぐれたる一義あるによりて我聖人も別して真の字をおきて浄土真宗とさだめたまへり〉といっている。…
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