実践的な社会活動を重んじるプロテスタントの一教派。1865年にロンドンのスラム街イースト・エンドで、メソジスト教会の牧師ブースWilliam Booth夫妻らによって始められた。キリストの福音(ふくいん)の伝道、信仰的共同体の形成、貧困と悪徳を敵として社会改善のために戦うことを目的とする団体である。ブースはその実践の最善の方法として、軍隊用語と軍服型の制服と軍隊方式の組織を採用した。現在ロンドンに万国本営を置き、各国に本営―連隊―小隊―分隊などの組織をもち、社会主義国を除くほとんどすべての国で活動している。
創立者ブースは少年時代に父親の事業の失敗と死によって苦労し、15歳で回心を経験、貧困に苦しむ人たちへの共感を抱く。伝道者としての召命を自覚し、妻キャサリンの協力を得て、創意工夫を生かしてスラム街で伝道活動に従事(1865年以降)する過程で、情熱的なブースはメソジスト教会から分かれて東ロンドン伝導会を組織したのち、この活動組織を1878年に「救世軍」と改名した。救世軍はキリスト教の教義を単純化した「救いと聖潔」を中心教理とし、その教理を「血と火」という標語にまとめた。血はキリストを、火は聖霊を表象する。既成教派で重んじる礼典は否定した。禁酒と禁煙を守る生活の規律は合理的・禁欲的エートス(道徳的気風)を生み出した。このような純然たる救霊運動として出発した救世軍は、地域住民の多様な日常的必要に対応しうる施設を提供して奉仕活動に従事した。マイクロホンのない時代に、群衆を集める工夫としてらっぱを吹奏したことから、ブラスバンドが伝道の武器となった。
日本での活動は、1895年(明治28)にライト大佐ら14名の伝道者が来日したことから始まり、救世軍の伝道方法と情熱に共鳴した山室軍平(やまむろぐんぺい)が参加し、志を同じくする者が祈りと力とをあわせて日本救世軍を発展させ、行政の責任者が無視していた底辺の大衆の心の問題と救いと生活上の援助に誠実な努力を注いだ。公娼(こうしょう)制度の犠牲となっていた女性の解放運動(1900)に立ち上がり、セツルメント事業として大学殖民(しょくみん)館(1908)、労働寄宿舎(1911)、社会殖民館(1917)を開設し、病院(1912)や結核療養所(1916)を経営するなど、伝道と同時に活発な社会奉仕活動によって注目されてきた。年末の街頭の風物になっている慈街頭募金活動の「社会鍋(なべ)」も、その活動の一端である。
日中戦争が深刻化した1940年(昭和15)救世軍は政府の弾圧によって救世団と改名し、翌年政府の指導下で生まれた日本基督(キリスト)教団に参加した。太平洋戦争後の1946年救世軍日本本営として再建されて今日に至る。1989年(平成1)、救世軍清瀬病院にホスピス病棟が開設された。2010年時点で、日本の小隊数は58を数え、士官数111名、兵士(信者)数3332名である。
[川又志朗・原 誠]
『吉田信一編著『神の国をめざして 日本救世軍の歴史3 1945~1965』(1987・救世軍出版供給部)』▽『秋元巳太郎著『神の国をめざして 日本救世軍の歴史1 1895~1926』(1991・救世軍出版供給部)』▽『秋元巳太郎著『神の国をめざして 日本救世軍の歴史2 1927~1946』(1992・救世軍出版供給部)』▽『吉田信一・持丸智惠子編著『神の国をめざして 日本救世軍の歴史4 1966~1995』(1995・救世軍出版供給部)』
1865年,イギリスのメソディスト教会牧師ブースWilliam Booth(1829-1912)は,ロンドン東部貧民地区の飲酒,悪徳,賭博その他の罪過にあえぎ,教会からは遠ざかる住民のために〈クリスチャン・ミッション〉と呼ばれる熱烈な伝道組織を創設した。これが78年〈救世軍〉と改称し,軍旗と軍楽隊,軍服型の制服や規律正しい軍隊的秩序をもって,独自の伝道戦線を展開した。在来の教会では対処しえない社会的ニーズに即応するその進撃的態度は,めざましい活力を発揮し,ロンドンに万国本営を置き,各国に本営,連隊,小隊,分隊等の組織をもつ国際的団体へと発展した。
1895年,ライト大佐一行の来日によって日本救世軍が創立され,《ときのこえ》を発刊し,山室軍平がその最初の士官候補生として挺身した。その教義の特色は改悛による聖潔生活の厳守にあり,霊魂の不滅,からだのよみがえり,世の終りの総審判,正しき者の永遠の幸福および悪しき者の永遠の刑罰を信ずるオーソドックス信仰に拠っている。1900年,廃娼運動を開始,婦人ホームを開設,島田三郎らと廃娼同盟会を結成し,08年にはセツルメント〈社会植民館〉開設,12年病院開設など,伝道活動と社会事業とを結ぶ活発な社会奉仕活動を続けた。19年東京の神田に本営を完成したが,慈善運動の〈社会なべ〉を始めたのはこのときである。27年山室軍平は日本救世軍司令官に就任した。戦争機運の深まるなかで40年に宗教団体法が制定され,救世軍幹部はスパイ容疑で捜索を受け,山室の《平民の福音》は紙型を没収され,8月救世軍はついに解散,〈救世団〉と改称した。翌年日本基督教団に加盟,その本格的活動の再開は46年の日本救世軍再建のときを待たなければならなかった。すでに山室は1940年逝去,戦後の再建は植村益蔵司令官によって行われた。
執筆者:嶋田 啓一郎
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プロテスタント協会の一派。イギリスのメソジスト派の牧師W.ブースが1865年ロンドン東部の貧民地区で伝道に着手,のち東ロンドン伝道会と称し,77年に救世軍と改め軍隊的な制度・組織を採用。日本救世軍は,95年(明治28)E.ライト大佐が最初の日本救世軍司令官として来日したときに創立され,「ときのこえ」を創刊。翌年山室軍平(ぐんぺい)を日本人最初の救世軍士官に任命。貧民・労働者に対する伝道,廃娼・禁酒などの社会改良運動を行い,社会事業の開拓者的役割をはたした。第2次大戦中は日本基督教団に強制加入させられたが戦後離脱,現在は宗教法人・社会福祉法人救世軍。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…明治以降もこれらは存続したが,ややもすれば中間搾取,強制労働,人身売買等の弊害を伴っていた。職業紹介が公益的な事業として行われたのは,1906年(明治39)救世軍が東京の本営内に無料宿泊および職業紹介施設を設置したのが最初である。これに続いて公益的な団体による紹介所が設立されるようになったが,これらはすべて私設で,救貧的,慈恵的な性格をもつものであった。…
… 日本ではマリア・ルース号事件を契機に1872年(明治5)の〈娼妓解放令〉によって公娼制は廃止されたが,たちまち当人の望みにより渡世する娼妓と貸座敷として復活した。これに対して婦人矯風会や救世軍などの団体が廃娼をとなえ,これに伴って82年群馬県会が公娼廃止令を布告,93年実施した。以後廃娼運動は,99年の吉原の一娼妓の自由廃業,翌年のキリスト教牧師による自由廃業運動を経て,1900年代初めには神の恵みを娼妓に及ぼす救世軍の自由廃業運動として展開され,11年には廃娼目的の廓清会も生まれ,大正期に入っては,関東大震災(1923)直後,東京連合婦人会政治部による全国廃娼期成同盟の結成,26年廓清会と婦人矯風会による廃娼連盟の結成をみた。…
…救世軍の創立者,初代大将。イギリスのノッティンガムに生まれ,もとはメソディスト派の伝道者であったが,やがて独立してロンドンの貧民地区の伝道を始めた。…
※「救世軍」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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