教信(読み)きょうしん

改訂新版 世界大百科事典 「教信」の意味・わかりやすい解説

教信 (きょうしん)
生没年:?-866(貞観8)

平安初期の念仏行者。後世の伝では京都の人。光仁天皇の後裔とも伝え,興福寺で出家し,諸国を巡歴したというが,いっさい不明。播磨国賀古郡賀古駅の北に草庵を結び,在俗の沙弥(しやみ)として妻子を養い村人に雇われて生活した。西方浄土を念じて日夜念仏を怠らず,村人は〈阿弥陀丸〉と呼んだ。死の前夜,摂津国勝尾寺の座主勝如のもとへ教信が訪れ,本日極楽へ往生すること,勝如は明年の同月同日に往生すると予告したので,弟子を遣わして尋ねたところ,はたして教信は死んでおり,遺骸は犬が群がって食べていた。勝如は自分の修行より教信の念仏に勝るものはないと悟り,集落に出て念仏をすすめ,予告のとおり往生をとげた。教信の往生は,往生伝説話に収録され,広く知られた。院政期南都の浄土教家永観は,教信を念仏者の理想像として,《往生拾因》に詳しく述べた。親鸞はつねに〈われはこれ賀古の教信沙弥の定なり〉と語り,非僧非俗の範としている。一遍も旧跡に詣でて踊念仏を興行し,臨終の地に定めようとした。教信の伝は種々の潤色が加えられ,謡曲《野口判官》や浄瑠璃《賀古教信七墓廻》の素材となり,人々に親しまれた。
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朝日日本歴史人物事典 「教信」の解説

教信

没年:貞観8(866)
生年:生年不詳
平安前期の念仏聖。播磨国賀古郡賀古駅(兵庫県加古川市)に草庵を結び,妻帯して,一生の間昼夜も休まず念仏した。人々は彼を阿弥陀丸と呼んだ。死没の当日,摂津国(大阪府)勝尾寺の僧勝如 のもとに現れ,自身と勝如の極楽往生を予告したという。彼の一心不乱の念仏は,後世,親鸞や一遍などの専修念仏(ひたすら念仏をとなえる)の僧侶によって注目され理想の念仏聖とされた。往生伝や『今昔物語』をはじめとする説話集や謡曲『野口判官』などの文芸作品に多く取り上げられたが,その実像は不鮮明である。<参考文献>『日本往生極楽記』,平林盛得「沙弥教信説話の変貌」(『歴史教育』14巻9号)

(小原仁)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「教信」の解説

教信 きょうしん

?-866 平安時代前期の僧。
奈良興福寺で法相(ほっそう)宗をまなぶが,学問をすてて播磨(はりま)(兵庫県)の賀古(かこ)に隠棲(いんせい)。里人にやとわれて暮らしをたて,妻帯し,かつ念仏に専念するという非僧非俗の生活をおくった。のち親鸞(しんらん)や一遍らの浄土思想家に注目され,理想の念仏聖(ひじり)として敬慕された。貞観(じょうがん)8年8月15日死去。通称は阿弥陀丸(あみだまる)。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の教信の言及

【源義経】より

…この衣川合戦は幸若舞《高館(たかだち)》などにも記されている。伝説によっては,衣川合戦に義経は戦死せず,合戦に敗れ味方がことごとく討死した後,鞍馬の大天狗に助けられ,空を飛ぶ乗物で播磨国野口の里に飛来し,入道して教信上人と号し教信寺を建立したという(能《野口判官》など)ものもあり,蝦夷島に渡ってその地を征服し,オキクルミ大王と仰がれ,後には神としてまつられた(《続本朝通鑑》など)とするものがあり,東北から北海道にかけて義経神社などが多く,青森県東津軽郡三厩(みんまや)村には,ここから義経が蝦夷島に渡ったとする伝説がある。また,義経やその家来にまつわる伝説は諸国に数多くある。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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