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教懐 きょうかい

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

教懐 きょうかい

1001-1093 平安時代中期-後期の僧。
長保3年生まれ。左近衛(さこんえの)中将藤原教行の子。京都の人。奈良興福寺で法相(ほっそう)をまなび,山城(京都府)小田原に隠棲(いんせい)。70歳のころ高野山にのぼり,20年余り両界法を修練し,阿弥陀真言をとなえることを日課にして,のちに高野聖(ひじり)の祖とあおがれた。寛治(かんじ)7年5月28日93歳で往生をとげた。通称は小田原迎接房(ごうしょうぼう),小田原聖。

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朝日日本歴史人物事典の解説

教懐

没年:寛治7.5.28(1093.6.24)
生年:長保3(1001)
平安中・後期の顕密の僧で高野聖の祖。俗称は小田原迎接房。その生涯は『拾遺往生伝』『高野山往生伝』などで知ることができる。讃岐守であった父が拷問を加えた罪人の怨霊鎮魂と滅罪のために幼くして出家,興福寺に入る。やがて寺を出て同寺の念仏別所である小田原(京都府相楽郡加茂町)に住した。その後,小田原を出て高野山に登る。そのとき,教懐は推定70歳で,年齢からして極楽往生が目的であったらしい。高野山では毎日両界法と阿弥陀供養を行い,大仏頂陀羅尼と阿弥陀大真言を誦す真言念仏の日々を送った。寛治2(1088)年に白河上皇が高野山に御幸した際,小袖綿衣30領を賜る聖人のひとりに選ばれ,同時に他の聖人の補任権も与えられていることから,聖集団が一定の勢力として形成されていたことが知られる。没するまでの20余年におよぶ高野山滞在を通じて小田原聖と呼ばれる念仏集団が形成され,教懐は高野聖の祖と仰がれるようになった。高野山における足跡は大きく,別所聖として教懐が活動した場は小田原谷という地名として残り,同法である維範の往生を雲に乗って迎える彼の様子を石像化したものが近世まであったらしい。<参考文献>五来重『増補高野聖』,加茂町史編纂委員会編『加茂町史』1巻

(追塩千尋)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

きょうかい【教懐】

1001‐93(長保3‐寛治7)
平安後期の高野山の念仏聖。小田原聖人,小田原迎接房ともいう。京都の人,出家して興福寺に入り,林懐について学んだが,山城国久世郡小田原の興福寺の別所に移り念仏生活に入った。70歳のとき高野山に入って,毎日両部大法,阿弥陀供養法を修し,大仏頂陀羅尼,阿弥陀大真言を誦した。教懐の周辺には隠遁者が集まり,真言念仏者集団が形成された。死期を悟って不動図像数百体を模写して開眼供養し,衆僧の念仏と奇瑞の内に往生をとげた。

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