日本歴史地名大系 「新保山城跡」の解説
新保山城跡
しんぼやまじようあと
上城は山頂稜線を削平しているため、長大な割に幅は狭く、階段状に一八郭が連なる連郭式である。五ブロックに分れ、郭の間には空堀を設けて防備とし、二八七メートルラインの郭と最高所郭を結ぶ三郭が主郭と考えられる。これらの郭の後方・前方・側面は土塁で囲み、一部に盛土した櫓台と推定されるところもある。
城主は「若狭郡県志」に「伝言、昔上杉金吾拠之、後年粟屋右京亮元隆居焉、元隆武田元光麾下之士也、其後武田中務守之、中務始名八郎、其子五郎亦棲焉、而領宮川保四箇村并松永東郷之内七箇村、又三方郡倉見庄有采食之地」とあって、上杉・粟屋・武田の三氏が拠ったとする。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報