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室町幕府12代将軍。義澄の次男として播磨に出生。1521年(大永1)将軍義稙(よしたね)の出奔後,細川高国に嗣立されて将軍に就任。当時は細川氏家督が幕府を壟断し,将軍にはほとんど実権がなかった。しかも27年,高国が細川晴元軍に大敗したので近江に亡命し,武佐,桑実寺,朽木谷と同国の各所を転々と流寓した。32年(天文1)ようやく晴元と和睦して将軍の権限を回復したものの,一向一揆,法華一揆の戦闘と町衆の自治によって京都に入れず,36年に至って京都の御所に定住するという有様であった。以後晴元の畿内支配によって小康状態を保ったが,細川国慶,同氏綱らの謀反でその後もしばしば逃亡・入京をくり返し,最終的に49年6月,三好長慶に京都を明け渡して近江に出奔した。北白川城,中尾城等東山に築城して京都回復を目ざしたが,三好・松永連合軍に勝てず,近江穴太(あのう)で客死。
執筆者:今谷 明
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(今谷明)
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1511.3.5~50.5.4
室町幕府の12代将軍(1521.12.25~46.12.20)。11代義澄の長子。法名万松院曄山道照。従三位権大納言・贈従一位左大臣。近江国岡山城で生まれ,播磨国守護赤松義村のもとで養育された。1521年(大永元)将軍義稙(よしたね)の淡路への出奔後,播磨から細川高国に迎えられて将軍となる。27年,高国が桂川の戦で敗れると,近江国坂本へのがれた。翌年,足利義維(よしつな)を擁して京都を支配した細川晴元との和議をはかるが失敗,同国朽木(くつき)へ移る。34年(天文3)晴元と和して京都へ帰還。将軍職を長子義輝に譲った翌47年,晴元と同氏綱の争いで氏綱に与したため,晴元により坂本へ追われた。翌年晴元と和し帰京するが,49年晴元が三好長慶に背かれて敗れ,またも坂本へ逃走。翌年近江国穴太(あのう)に移り,同地で病没。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
室町幕府第12代将軍。義澄(よしずみ)の長子。近江(おうみ)(滋賀県)九里備前守(くのりびぜんのかみ)の邸(やしき)で生まれ、播磨(はりま)守護赤松義村(よしむら)に養育された。1521年(大永1)将軍足利義稙(よしたね)が管領(かんれい)細川高国(たかくに)に追放されると、その擁立で元服、将軍となった。のち従三位(じゅさんみ)、権大納言(ごんだいなごん)。その後、高国の政権は部下の内訌(ないこう)と一族の争いのためきわめて不安定で、1538年(天文7)以来、義晴も京都と近江とを往復し安住できなかった。のちさらに細川晴元とその将三好長慶(みよしながよし)と争い、嗣子(しし)将軍義藤(よしふじ)(義輝(よしてる))を従え、山城(やましろ)(京都府)中尾城に進もうとして病没。京都東山の慈照(じしょう)寺に葬送された。
[奥野高広]
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