足利義晴(読み)アシカガヨシハル

デジタル大辞泉 「足利義晴」の意味・読み・例文・類語

あしかが‐よしはる【足利義晴】

[1511~1550]室町幕府第12代将軍在職1522~1547。義澄の子。細川高国擁立され将軍となったが実権がなく、天文15年12月(1547年1月)、将軍職を子の義輝に譲った。

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精選版 日本国語大辞典 「足利義晴」の意味・読み・例文・類語

あしかが‐よしはる【足利義晴】

  1. 室町幕府第一二代将軍。義澄の子。大永元年(一五二一)将軍となった。天文一五年(一五四六)一二月、義輝に将軍職を譲る。永正八~天文一九年(一五一一‐五〇

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百科事典マイペディア 「足利義晴」の意味・わかりやすい解説

足利義晴【あしかがよしはる】

室町幕府12代将軍。義澄の次男。1521年将軍義稙出奔後,管領細川高国に擁立されて将軍となる。高国は義晴を厚遇したが,当時将軍にはほとんど実権がなかった。高国が細川晴元軍に敗れると,義晴は近江亡命各所を流寓した。高国の敗死後,義晴は晴元と和睦して将軍の権限を回復したが,その後も入京・逃亡を繰り返した。1546年嗣子義藤(義輝)に将軍職を譲ったが,1549年三好長慶に京を追われ,近江穴太(あのう)で客死するまで京を回復することはできなかった。
→関連項目大館氏大館常興日記倉月荘

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改訂新版 世界大百科事典 「足利義晴」の意味・わかりやすい解説

足利義晴 (あしかがよしはる)
生没年:1511-50(永正8-天文19)

室町幕府12代将軍。義澄の次男として播磨に出生。1521年(大永1)将軍義稙(よしたね)の出奔後,細川高国に嗣立されて将軍に就任。当時は細川氏家督が幕府を壟断し,将軍にはほとんど実権がなかった。しかも27年,高国が細川晴元軍に大敗したので近江に亡命し,武佐,桑実寺,朽木谷と同国の各所を転々と流寓した。32年(天文1)ようやく晴元と和睦して将軍の権限を回復したものの,一向一揆,法華一揆の戦闘と町衆の自治によって京都に入れず,36年に至って京都の御所に定住するという有様であった。以後晴元の畿内支配によって小康状態を保ったが,細川国慶,同氏綱らの謀反でその後もしばしば逃亡・入京をくり返し,最終的に49年6月,三好長慶に京都を明け渡して近江に出奔した。北白川城,中尾城等東山に築城して京都回復を目ざしたが,三好・松永連合軍に勝てず,近江穴太(あのう)で客死。
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朝日日本歴史人物事典 「足利義晴」の解説

足利義晴

没年:天文19.5.4(1550.5.20)
生年:永正8.3.5(1511.4.2)
室町幕府第12代将軍。義澄の子。近江岡山城(滋賀県近江八幡市)に生まれる。生後すぐ父を失い,播磨(兵庫県)赤松義村の庇護下に育つ。大永1(1521)年末,将軍足利義稙は執政細川高国と対立して出奔,高国は義晴を招き将軍に擁立した。享禄3(1530)年従三位大納言。大永5年北室町柳原に幕府を造営したが,高国一族内訌から翌年丹波の柳本賢治らが反し,同7年2月の桂川の戦で細川晴元,三好元長らに大敗,高国と共に近江へ逃亡した。以後同母兄の義維を頂く堺公方府に畿内の支配を許すが,天文1(1532)年6月晴元と和睦し義維政権を倒した。しかし一向一揆や法華一揆の猖獗で畿内は戦乱の巷となり,同3年ようやく還京を果たす。翌々年法華一揆が潰滅して以降は小康状態を保つが,晴元の家宰三好長慶が台頭し,同15年末には近江に逃れて実子義輝に将軍を譲る。同18年6月摂津江口の戦で晴元が長慶に敗れ,京都回復を果たせないまま翌年近江で客死した。<参考文献>長江正一『三好長慶』,今谷明『戦国三好一族』

(今谷明)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「足利義晴」の解説

足利義晴
あしかがよしはる

1511.3.5~50.5.4

室町幕府の12代将軍(1521.12.25~46.12.20)。11代義澄の長子。法名万松院曄山道照。従三位権大納言・贈従一位左大臣。近江国岡山城で生まれ,播磨国守護赤松義村のもとで養育された。1521年(大永元)将軍義稙(よしたね)の淡路への出奔後,播磨から細川高国に迎えられて将軍となる。27年,高国が桂川の戦で敗れると,近江国坂本へのがれた。翌年,足利義維(よしつな)を擁して京都を支配した細川晴元との和議をはかるが失敗,同国朽木(くつき)へ移る。34年(天文3)晴元と和して京都へ帰還。将軍職を長子義輝に譲った翌47年,晴元と同氏綱の争いで氏綱に与したため,晴元により坂本へ追われた。翌年晴元と和し帰京するが,49年晴元が三好長慶に背かれて敗れ,またも坂本へ逃走。翌年近江国穴太(あのう)に移り,同地で病没。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「足利義晴」の意味・わかりやすい解説

足利義晴
あしかがよしはる
(1511―1550)

室町幕府第12代将軍。義澄(よしずみ)の長子。近江(おうみ)(滋賀県)九里備前守(くのりびぜんのかみ)の邸(やしき)で生まれ、播磨(はりま)守護赤松義村(よしむら)に養育された。1521年(大永1)将軍足利義稙(よしたね)が管領(かんれい)細川高国(たかくに)に追放されると、その擁立で元服、将軍となった。のち従三位(じゅさんみ)、権大納言(ごんだいなごん)。その後、高国の政権は部下の内訌(ないこう)と一族の争いのためきわめて不安定で、1538年(天文7)以来、義晴も京都と近江とを往復し安住できなかった。のちさらに細川晴元とその将三好長慶(みよしながよし)と争い、嗣子(しし)将軍義藤(よしふじ)(義輝(よしてる))を従え、山城(やましろ)(京都府)中尾城に進もうとして病没。京都東山の慈照(じしょう)寺に葬送された。

[奥野高広]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「足利義晴」の解説

足利義晴 あしかが-よしはる

1511-1550 室町幕府12代将軍。在職1522*-47*。
永正(えいしょう)8年3月5日生まれ。足利義澄の子。将軍足利義稙(よしたね)が京都から淡路(あわじ)(兵庫県)にのがれたのち,大永(たいえい)元年細川高国に擁立されて将軍となる。細川氏の内紛のため地位は安定せず,しばしば京都をのがれる。天文(てんぶん)15年子の義輝に将軍職をゆずった。天文19年5月4日死去。40歳。近江(おうみ)(滋賀県)出身。幼名は亀王丸。法号は万松院。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「足利義晴」の意味・わかりやすい解説

足利義晴
あしかがよしはる

[生]永正8(1511).3.5. 近江
[没]天文19(1550).5.4. 近江,穴太
室町幕府 12代将軍 (在職 1521~46) 。父は義澄。大永1 (1521) 年細川高国に擁されて将軍となる。その後三好氏に圧倒されてしばしば近江国に逃れた。天文 15 (46) 年将軍職を長子義輝に譲った。

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旺文社日本史事典 三訂版 「足利義晴」の解説

足利義晴
あしかがよしはる

1511〜50
室町幕府12代将軍(在職1521〜46)
義澄 (よしずみ) の子。前将軍義稙 (よしたね) を追放した管領細川高国に擁立されたが実権はなく,細川氏の臣三好氏らの反乱にあうなど,しばしば京都をのがれた。将軍職を子義輝に譲り隠退。

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367日誕生日大事典 「足利義晴」の解説

足利義晴 (あしかがよしはる)

生年月日:1511年3月5日
戦国時代の室町幕府第12代の将軍
1550年没

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