新倉村(読み)あらくらむら

日本歴史地名大系 「新倉村」の解説

新倉村
あらくらむら

[現在地名]富士吉田市新倉・あさひ一―五丁目・たつおか二―三丁目

北部の三ッ峠みつとうげ山から南に延びる尾根の尾垂おたれ山・うそぶき山などの東麓にある。東から北東にかけては下吉田しもよしだ村、南東は松山まつやま村に接し、北西は船津ふなつ(現河口湖町)、西側の尾根筋を境として浅川あざがわ村・川口かわぐち(現同上)へ続く。「勝山記」によれば永正一四年(一五一七)正月一日小林尾張入道は「荒蔵」に出陣、翌二日より駿河今川氏の軍勢の拠る吉田城よしだのじよう山を攻撃した。天正八年(一五八〇)閏三月一一日には「荒倉」の甚右衛門尉の田地二九〇目・丸尾地二五〇目が小山田信茂から助右衛門尉に宛行われ、相当の奉公が命じられた(「小山田信茂判物」渡辺三太郎文書)。「高野山引導院過去帳」には、同一四年八月六日つる(都留)郡「アラ蔵ノマコ右衛門」が位牌を立てたことがみえるが、当地かしも郷に属する現大月市の新倉をさすかは不明。

文禄二年(一五九三)九月一六日のまき新判物(渡辺三太郎家文書)、同四年二月一六日の浅野氏重判物写(甲斐国志)には「新蔵」とみえる。同三年の検地帳(奥脇信一家文書)に新倉村とみえ、田一二石余・一町一反余、畑屋敷一三四石余・二九町七反余で、合せて一四七石余・三〇町九反余となっている。


新倉村
あらくらむら

[現在地名]早川町新倉

大原野おおはらの村・黒桂つづら村の北、早川左岸に位置し、本集落は北東と南西を標高一一〇〇メートルを超える山塊に挟まれた標高五〇〇メートルほどの狭隘な谷間に立地する。北東方向へ山を登ると標高九〇〇メートルの山腹に枝村の茂倉むぐら(現在はモグラとよぶ)があり、ここからは十谷じつこく(現鰍沢町)へ抜ける道が開けていた。早川入一八ヵ村の一。穴山信友の発給した奈良田ならだ郷に関する判物(年月未詳。深沢輝一家文書)のなかに「湯嶋新倉同様奉公可申候」とみえる。慶長古高帳に村名がみえ、高一六石余、幕府領。寛文一一年(一六七一)検地高は一二五石余、反別は畑・屋敷のみで八〇町八反余(「検地帳」県立図書館蔵)


新倉村
あらくらむら

[現在地名]大月市梁川町新倉やながわまちあらくら

つなうえ村の東、桂川の左岸に位置し、集落は南斜面の同川段丘上にある。有倉とも記した。文禄―慶長期(一五九二―一六一五)のものと推定される四郡高〆控では下荒倉とみえ、高四三石余。下荒倉とあるのは同じ都留つる郡内にもう一つの荒倉(新倉)(現富士吉田市)があるためであろう。寛文九年(一六六九)検地のものと思われる年未詳の検地帳(県立図書館蔵)によると高四二石余、反別は五町一反余。寛政七年(一七九五)都留郡御成箇郷帳(渡辺正三家文書)によると野田尻のたじり宿(現上野原町)助郷役を勤めていて、高は寛文検地時と同じ。ほかに山畑一町四反余がある。大工一人役永五〇文・絹紬運上永一貫二六〇文・茶運上永三六文を納め、年貢米二二石余・永二貫三二九文・大豆九斗余が課せられていた。


新倉村
あらくらむら

[現在地名]岡谷市川岸かわぎし 新倉

三沢みさわ村の南西方にあり、南西に走る西にし山山地と、これと並行して流れる天竜川とに挟まれ、細長い村落を形成している。

永禄八年(一五六五)の「諏方上下社祭祀再興次第」に「三済山(御射山)奉行三沢対馬守」とあり、また同一〇年の諏訪五十騎衆交名の中にその名が記されている三沢対馬守は、三沢地籍にある高尾たかお城の城主であった。当時の根小屋は高尾城よりはるか下方の新倉地籍の天竜川に近い台地上にあったが現在は畑地となっている。

村名の初見は天正六年(一五七八)の下諏訪春宮造宮帳に「宮大工(烏)帽子・水干造宮 岡屋 三沢 新倉 辰野」とあり、天正一八年の諏訪郡御検地御高帳(諏訪郡諸村並旧蹟年代記)に「高四百弐拾石 新倉郷」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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