大原野村(読み)おおはらのむら

日本歴史地名大系 「大原野村」の解説

大原野村
おおはらのむら

[現在地名]宝塚市大原野

波豆はず村の東に位置する。中世は多田ただ庄内の一村。応安元年(一三六八)四月八日の多田院(現川西市)の金堂供養棟別銭注文(多田神社文書)に「玉瀬・大原野両村」とみえ、玉瀬たまぜ村の百姓らとともに棟別銭の徴収を拒否して逃散している。永和元年(一三七五)には同院法花堂・常行堂地蔵堂の造営料として一三二家(一家当り一〇文弱)に棟別銭が課されている(七月二五日「諸堂造営料棟別銭郷村注文」同文書)。文明二年(一四七〇)八月二二日、摂津四天王寺領多田庄内の大原野など四所は他の押妨をとどめ、青蓮院門跡の直務とされている(「室町将軍家御教書」華頂要略)。同一八年の多田庄段銭結解状(多田神社文書)によると新田方分として六町八〇歩(うち不作一町)、納分三貫四六三文、諸本所分として当村地頭分一一町五段九〇歩(又佃五段、七段五〇歩新田成)、納分六貫五〇〇文。永正三年(一五〇六)は新田方分として六町八〇歩(うち一町は不作か、また一町二段二九〇歩は新不作とある)、納分二貫八〇三文、諸本所分として当村地頭分一一町五段九〇歩(うち佃五段は免除、一町五段四〇歩新不、六段は延徳三年に川成)、納分六貫八六二文。二〇年の間に波豆川の氾濫・開墾などで耕地に変化のあったことが推察される。四天王寺領は文明一八年・永正三年とも諸本所分の末尾に一括して「天王寺五ケ所」と記されており、大原野村の四天王寺領もこのなかに含むものと思われる。

大原野村
おおはらのむら

[現在地名]西京区大原野〈北春日きたかすが町・西境谷にしさかいだに町一丁目及び同二丁目の大部分・東境谷ひがしさかいだに町一丁目及び二丁目の一部・南春日みなみかすが町〉

小塩おしお山東麓、小畑おばた川と善峰よしみね川に挟まれる扇状地丘陵に位置。北は沓掛くつかけ、東は長野新田・塚原・上里かみざと、南は長峰ながみね・坂本、西は外畑とのはたの各村に接する。

村名は古代の地名に起源(→大原野。古く貴族の狩場の一つであり、また大原野神社により広く知られた。中世から近世初期には西行や木下長嘯子など隠遁者の別業が営まれている。

江戸期の村高六七〇・六石余はほとんど変動なく、享保一四年(一七二九)には西園寺家二〇〇石、広橋家二〇〇石、樋口家一〇〇石、藤波家六一・九石、法皇御料四五・六石余、堀川家二九・七石余、その他の知行である(山城国高八郡村名帳)

大原野村
おおはらのむら

[現在地名]早川町大原野

早川村の北、早川左岸に位置し、本集落は同川支流の新宮にいみや川に沿った斜面上に立地する。北東方向に山嶺を越えた十谷じつこく(現鰍沢町)への道があった。新宮川河口脇にある塩島しよじま集落は枝村。「甲斐国志」にはほかに柿草里かきぞうりも枝村としてあがっているが、現在は無住となって集落はない。もとは塩島に住んでいた人々が天正四年(一五七六)に起きた山崩れを契機に大原野(本集落)へ移住したとの伝承がある(早川町誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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