木戸孝允(読み)きどたかよし

精選版 日本国語大辞典 「木戸孝允」の意味・読み・例文・類語

きど‐たかよし【木戸孝允】

政治家。本姓、和田。桂小五郎、木戸貫治、さらに準一郎と改名。号、松菊。孝允は「こういん」とも。長州藩(山口県)出身。吉田松陰に師事。幕末、薩長連合を結び、倒幕、王政復古運動を指導する。維新後、新政府の中心となり、版籍奉還廃藩置県を断行。欧米視察後は、内治の優先を唱えて征韓論、征台論に反対し、天皇制絶対主義政治の確立に努めた。天保四~明治一〇年(一八三三‐七七

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デジタル大辞泉 「木戸孝允」の意味・読み・例文・類語

きど‐たかよし【木戸孝允】

[1833~1877]政治家。長州の人。初め桂小五郎と称し、のち木戸姓。維新の三傑の一人。吉田松陰に学び、討幕の志士として活躍した。明治維新後、五箇条の御誓文の起草、版籍奉還廃藩置県などに尽力。征韓論・台湾征討に反対した。きどこういん。逃げの小五郎のあだ名もある。

きど‐こういん〔‐カウイン〕【木戸孝允】

きどたかよし(木戸孝允)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「木戸孝允」の意味・わかりやすい解説

木戸孝允
きどたかよし
(1833―1877)

幕末・維新期の政治家。旧長州藩士。大久保利通(おおくぼとしみち)、西郷隆盛(さいごうたかもり)と並ぶ「維新三傑」の一人。天保(てんぽう)4年6月26日、同藩士和田家に出生。7歳で桂(かつら)九郎兵衛家の嗣子(しし)となり、通称を小五郎と称したが、1865年(慶応1)藩主から木戸姓をもらい、貫治、準一郎と改め、松菊と号した。1849年(嘉永2)吉田松陰(よしだしょういん)の門弟となり、その後、江戸に留学、また江川太郎左衛門から洋式砲術を学んだ。1858年(安政5)以降、安政(あんせい)の大獄後の状況のなかで、自藩をはじめ、薩摩(さつま)、水戸、越前(えちぜん)諸藩の尊攘(そんじょう)派の志士と広く交わり、尊王攘夷(じょうい)運動に奔走した。1864年(元治1)禁門(きんもん)の変(蛤御門(はまぐりごもん)の変)で薩摩藩などと戦って長州藩が敗走したのち、高杉晋作(たかすぎしんさく)らの長州藩討幕派が同藩の実権を掌握すると帰藩し、諸藩と折衝する過程で、1866年薩長同盟を締結することに成功。以後、討幕派の一代表として活躍した。

 幕府倒壊による明治維新の実現後、政府官僚として太政官(だじょうかん)に出仕、参与、総裁局顧問などを務め、由利公正(ゆりきみまさ)や福岡孝弟(ふくおかたかちか)らと「五か条の誓文(せいもん)」の起草に参加した。さらに1870年(明治3)には参議に昇進し、版籍奉還、ついで廃藩置県を通じて、統一政権の成立に指導的役割を果たした。また1871年には、特命全権大使岩倉具視(いわくらともみ)が率いる米欧遣外使節団に大久保利通、伊藤博文(いとうひろぶみ)らと加わり、外国の政治、経済、軍事などの諸制度や施設を視察した。1873年帰国後、岩倉、大久保らとともに、西郷隆盛らが主張する征韓論に反対して彼らを退け、下野させた。しかし、この直後に成立した大久保の独裁政権には批判的立場を示し、政府の支配体制の枠内で啓蒙(けいもう)官僚として行動した。1874年の台湾出兵に反対して一時参議を辞任したこともあったが、翌年の大阪会議では大久保らの政府主流派に妥協して、再度、参議に復帰した。その後は地方官会議議長に就任し、また内閣顧問に転任したこともあったが、このころから、病気を得て要職から退き、西南戦争の最中、明治10年5月26日京都で死去した。

 明治国家の成立の過程で、最初の絶対主義政権の形態をとった岩倉―大久保体制内部にあって、木戸の意識と行動はその開明的立場を代表する側面を示していたが、状況を展望する政治的資質においては明晰(めいせき)な大久保の能力に劣っていた。

[石塚裕道]

『木戸公伝記編纂所編『松菊木戸公伝』全2巻(1927・明治書院)』『木戸孝允関係文書研究会編『木戸孝允関係文書』全5巻(2005~ ・東京大学出版会)』


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百科事典マイペディア 「木戸孝允」の意味・わかりやすい解説

木戸孝允【きどたかよし】

明治初期の代表的政治家。西郷隆盛大久保利通とともに明治維新三傑といわれる。長州萩藩出身。7歳の時に桂家の養子となり,通称桂小五郎。号は松菊または木圭。吉田松陰に師事。また江戸の斎藤弥九郎に剣術,江川太郎左衛門に洋式兵術を学ぶ。1862年以降藩政要職にあり,藩論を尊攘(そんじょう)から倒幕へと導く。薩長連合には長州藩代表となり,大久保利通らと王政復古を実現する。五ヵ条の誓文起草に関与し版籍奉還を首唱。1871年岩倉使節団の副使として外遊後は内治優先を唱え,大久保らの企てた征台論に反対し下野するが,大阪会議後政府に復帰。第1回地方官会議議長を務めた。
→関連項目木戸幸一斎藤弥九郎薩長同盟参議征韓論廃藩置県萩[市]萩の乱浜田彦蔵広沢真臣

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改訂新版 世界大百科事典 「木戸孝允」の意味・わかりやすい解説

木戸孝允 (きどたかよし)
生没年:1833-77(天保4-明治10)

幕末・明治初期の政治家。大久保利通,西郷隆盛とともに明治維新の三傑と称される。長州藩出身。初め桂小五郎のち木戸貫治ついで準一郎,孝允と改名,号は松菊。1849年(嘉永2)吉田松陰の門下となり,52年江戸に出て斎藤弥九郎の塾で修業。やがて尊王攘夷運動に参加し,60年(万延1)井伊大老暗殺直後に水戸藩士西丸帯刀(たてわき)らと丙辰丸盟約を結んだ。尊王攘夷運動の隆盛期に長州藩を代表して諸藩人士と接触,ひろく知られるようになった。64年(元治1)禁門の変で長州藩が敗退すると但馬に潜伏したが,藩論が対幕抗戦に転換したので帰藩し,以後藩政の指導にあたった。66年(慶応2)第2次幕長戦争に際し,京都薩摩藩邸において,薩摩藩士小松帯刀,西郷隆盛とのあいだに薩長同盟を結び反幕体制を固めた。

 68年(明治1)王政復古後,明治新政府の徴士・参与,総裁局顧問,外国事務掛兼任。五ヵ条の誓文の作成に関与,69年の版籍奉還実現に中心的役割をはたした。しかし,大久保利通と対立,待詔院出仕の閑職に移されたので不満をいだき,また戊辰戦争後の国内の不穏な情勢を外にそらす目的もあって征韓論を主張した。清国朝鮮派遣使節に任命されたが,70年早々に国元で旧兵士の脱隊騒動が勃発したので,渡航を中止して帰藩,鎮圧にあたった。70年参議,71年の廃藩置県では漸進論をとったが,急進論の西郷,大久保に協力した。同年特命全権大使岩倉具視一行に全権副使として参加しアメリカ,ヨーロッパ諸国を巡遊したが条約改正に失敗し,大久保副使との衝突もあって,一行と別行動をとり73年帰国。留守政府の革新政策に反発し,また汚職を追及されて失脚寸前に追いこまれた長州派の山県有朋,井上馨らを救うために,大久保とよりをもどし,西郷や江藤新平の追放に成功した(明治6年の政変)。74年文部卿兼任,しかし大久保との対立が再燃し,大久保,西郷従道らの台湾出兵強行に反対して辞任,宮内省出仕となった。75年伊藤博文の仲介で大久保と大阪会議を行い,専制政治の緩和と民権の拡大のために元老院,大審院,地方官会議の設置を条件に政府に帰属,漸次立憲制樹立の路線をつくった。参議政体取調委員,地方官会議議長につく。76年病のため参議を退き内閣顧問。士族の地位と生活の維持に心をくだき,秩禄処分の緩和を説いた。77年の西南戦争中は京都の行在所で事変処理に関与したが,5月に病没した。
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朝日日本歴史人物事典 「木戸孝允」の解説

木戸孝允

没年:明治10.5.26(1877)
生年:天保4.6.26(1833.8.11)
幕末維新期の志士,政治家。通称小五郎,号は松菊,竿鈴(干令)。長州(萩)藩医和田昌景の次男。天保11(1840)年桂九郎兵衛の養子となる。嘉永2(1849)年吉田松陰に入門。同5年江戸に遊学,剣客斎藤弥九郎の道場に入り塾頭となる。万延1(1860)年水戸藩の尊攘派と盟約を結び,次第に高杉晋作,久坂玄瑞らと並んで尊攘派のリーダーとなっていったが,その一方で勝海舟,坂本竜馬,横井小楠ら開明派とも親交を持った。文久3(1863)年の8月18日の政変後も京都にとどまって藩の信頼回復に努め,翌年の新選組による池田屋襲撃を逃れたのちも京都に潜み,真木和泉ら激派の突出を抑えようとしたが,禁門の変を未然に防ぐことはできなかった。幕吏の追及も厳しくなり,ついに但馬出石に潜居。身なりをやつして二条大橋の下に潜む桂のもとに,芸妓幾松(木戸松子)が握り飯を運んだという有名なエピソードはこのときのものである。慶応1(1865)年木戸貫治と改名,竜馬の斡旋で薩摩藩と接触し,翌年1月,京都の薩摩邸で西郷隆盛らと薩長連合密約を結ぶ。さらに同3年秋,長州藩を訪問した大久保利通,西郷らと討幕挙兵について協議した。 明治1(1868)年1月,新政府で参与となり,「五箇条の誓文」の起草に当たった。また秋には大久保に封建領主制の改革について説き,この構想は翌2年の版籍奉還となって実現した。同3年6月参議に就任,同4年7月の廃藩置県の断行にも大きく関与した。この間,開明急進派のリーダーとして,漸進派の大久保としばしば意見の対立をみた。同年11月より岩倉遣外使節団副使として欧米を回覧して6年7月に帰国。明治6年の政変では内治派として大久保を支持したが,翌7年,台湾出兵に反対して参議を辞した。8年の大阪会議で将来の立憲制採用を協議して政府に復帰するが,大久保主導体制に不満を漏らすことが多く孤立しがちであった。10年,西南戦争のさなか「西郷よ,いいかげんにしないか」といい残して,京都で病死した。<参考文献>『松菊木戸公伝』

(佐々木克)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「木戸孝允」の意味・わかりやすい解説

木戸孝允
きどたかよし

[生]天保4(1833).6.26. 長門
[没]1877.5.26. 京都
明治初期の政治家。通称桂小五郎。幕末・維新期に長州藩の代表格として討幕運動に尽力,西郷隆盛大久保利通とともに明治維新三傑とも称される。長州藩藩医和田昌景の子として生まれ,7歳で桂家の嗣子となる。嘉永2(1849)年吉田松陰のもとに入門,嘉永5(1852)年江戸に留学し,洋式砲術・兵術,造船術,蘭学を学ぶ。江戸では水戸,越前,薩摩などの尊攘派と親しく交わり,以後尊王攘夷運動に奔走。禁門の変長州征伐で諸藩から孤立を深める長州藩の中枢にあって藩政を支え,慶応2(1866)年薩長同盟の密約を成立させた。維新後も明治政府に出仕し,版籍奉還を建言して明治2(1869)年にこれを実現させ,明治4(1871)年の廃藩置県にいたるまで,幕藩体制を解体して近代的中央集権国家を確立する基礎作業を推進した。さらに明治4年岩倉遣外使節に副使として同行し,諸国の憲法その他の法制を担当して研究した。帰国後は憲法の制定を建言したが,富国強兵政策に邁進する大久保との間で台湾征討をめぐって対立,一時官職を辞した。復職後は健康が優れず,京都で病没した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「木戸孝允」の解説

木戸孝允 きど-たかよし

1833-1877 幕末-明治時代の政治家。
天保(てんぽう)4年6月26日生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩医和田昌景の次男。桂(かつら)孝古の養子。嘉永(かえい)2年吉田松陰の松下村塾にはいる。のち江戸に遊学する。小五郎と称し,新堀松輔の変名もつかった。慶応元年木戸と改姓。西郷隆盛と薩長(さっちょう)同盟をむすび,倒幕をはかる。明治新政府の中枢にあって,「五箇条の誓文」の起草,版籍奉還,廃藩置県を主導した。明治3年参議となり,4年岩倉遣外使節団の全権副使。内政重視の立場から征韓論に反対,台湾出兵にも反対して,独裁をつよめる大久保利通(としみち)と対立,政権の主流からはなれた。西南戦争のさなかの明治10年5月26日病死。45歳。号は松菊(しょうぎく),木圭など。
【格言など】西郷,もうたいていにせんか(末期の言葉)

木戸孝允 きど-こういん

きど-たかよし

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「木戸孝允」の解説

木戸孝允
きどたかよし

1833.6.26~77.5.26

幕末期の萩藩士,明治期の政治家。本姓和田,旧名桂小五郎,号は松菊。吉田松陰に兄事し,江戸の斎藤弥九郎道場に学ぶ。萩藩の尊攘派を指導する一方,藩外の開明派とも親しく,8月18日の政変後も京都で萩藩の孤立回避に努めたが,禁門の変後但馬出石(いずし)に逃れた。1866年(慶応2)西郷隆盛らと薩長連合を密約,翌年秋に西郷・大久保利通と倒幕出兵を策した。維新後参与をへて70年(明治3)参議となる。長州閥・開明派の巨頭として版籍奉還・廃藩置県など一連の改革にあたり,岩倉遣外使節団には全権副使として参加。明治6年の政変では内治優先論をとった。翌年台湾出兵に抗議して下野,75年大阪会議で立憲制導入を条件に参議に復帰。しかし大久保への権力集中は改まらず,翌年参議を辞任した。

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防府市歴史用語集 「木戸孝允」の解説

木戸孝允

 江戸時代末の萩藩[はぎはん]志士[しし]の1人で、明治時代には政治家として活躍しました。吉田松陰[よしだしょういん]の教え子の1人です。桂小五郎[かつらこごろう]と言っていましたが、後に木戸孝允と名乗ります。1866年に西郷隆盛[さいごうたかもり]などと薩長同盟[さっちょうどうめい]を結ぶなど明治維新[めいじいしん]に大きな働きがあり、維新後は版籍奉還[はんせきほうかん]や廃藩置県[はいはんちけん]などの改革を手がけています。

出典 ほうふWeb歴史館防府市歴史用語集について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「木戸孝允」の解説

木戸孝允
きどたかよし

1833〜77
幕末の尊攘派志士。明治初期の政治家
維新の三傑の一人。長州藩出身。初め桂小五郎という。吉田松陰に師事。高杉晋作らと藩論を討幕へと導き,薩長連合に成功。新政権発足後は長州閥の巨頭として,五箇条の誓文の起草,版籍奉還・廃藩置県に指導的役割を演じた。1871年岩倉遣外使節に副使として同行。帰国後征韓論では西郷派と対立,のち征台の役に反対して下野。'75年大阪会議で参議にもどったが,翌年辞任。

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世界大百科事典(旧版)内の木戸孝允の言及

【岩倉使節団】より

…その目的は,(1)幕末に条約を結んだ国への新政府による国書の奉呈,(2)上記条約改正への予備交渉,(3)米欧各国の近代的制度・文物の調査・研究であったが,(2)の問題では成功せず,もっぱら(1)と(3)を主として遂行した。使節団の首脳は,右大臣岩倉(公卿,47歳――出発当時の数え年,以下同)のほか副使に参議木戸孝允(山口,39歳),大蔵卿大久保利通(鹿児島,42歳),工部大輔伊藤博文(山口,31歳),外務少輔山口尚芳(なおよし)(佐賀,33歳)がなり,各省派遣の専門官である理事官や書記官など総勢50名に近い大使節団であった。これまで一般的には《日本外交文書》第4巻所収の〈各国使節一行名前書〉により48名とされているが(51名説もある),出発間際まで発令の変更・取消しなどあり,メンバーの入れかわりもかなりある。…

【大阪会議】より

…1875年1月から2月に,大阪で開かれた政府指導層間の会談。征韓論による政府内部の対立のため,西郷隆盛,板垣退助らが下野し,次いで参議木戸孝允も台湾出兵などに反対してその職を辞した。こうして〈有司専制〉支配を固めて,政権の土台を確立しようとしていた参議・内務卿大久保利通の地位は孤立した。…

※「木戸孝允」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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