日本歴史地名大系 「浅草松葉町」の解説 浅草松葉町あさくさまつばちよう 東京都:台東区旧浅草区地区浅草松葉町[現在地名]台東区松が谷(まつがや)一―三丁目浅草北松山(あさくさきたまつやま)町の北、新堀(しんぼり)川西岸にある。明治二年(一八六九)起立。この辺り一帯は江戸時代初頭は沼地だったという。寛永一九年(一六四二)浅草三十三間(あさくささんじゆうさんげん)堂が建立されたが(御府内備考)、元禄一一年(一六九八)の火事(勅額火事)で同堂は類焼し(武江年表)、深川へ移転した。堂跡地には下谷山崎(したややまざき)町一丁目・下谷坂本(したやさかもと)町の一部や下谷周辺の寺院が移り、周辺に武家地、町屋などが開かれた。これにより一帯は堂前(どうまえ)と通称された(御府内備考)。享保年中江戸絵図によると武家地は小役人や伊賀者の屋敷であった。明治二年浅草浅留(あさくさあさとめ)町・浅草坂本(あさくささかもと)町・浅草(あさくさ)正定寺(しようじようじ)門前・浅草(あさくさ)松源寺(しようげんじ)門前・浅草(あさくさ)遍立寺(へんりゆうじ)門前・浅草東光院(あさくさとうこういん)門前・浅草(あさくさ)光感寺(こうかんじ)門前・浅草矢先(あさくさやさき)門前が合併して浅草松葉町となった。同五―六年には旧門前に付属する寺地、武家地および真龍(しんりゆう)寺・乗満(じようまん)寺・清水(せいすい)寺・実相(じつそう)寺・長福(ちようふく)寺・本覚(ほんかく)寺・聖徳(しようとく)寺・善徳(ぜんとく)寺・妙音(みようおん)寺・養安(ようあん)寺・貞源(じようげん)寺・清光(せいこう)院・涼源(りようげん)寺・正法(しようぼう)寺・海禅(かいぜん)寺・曹源(そうげん)寺・源光(げんこう)寺・長徳(ちようとく)寺・長円(ちようえん)寺の各寺地を合併。さらに同六年・同二四年には浅草光月(あさくさこうげつ)町の一部をそれぞれ合併。またこの間旧浅草東光院門前および東光院寺地を浅草芝崎(あさくさしばざき)町へ分離した。新堀川西側にある浄土宗正定寺は慶長一八年(一六一三)頃には元岩井(もといわい)町(現千代田区)付近にあり、寛永九年下谷に移り、同所が御用地となったため正徳四年(一七一四)三十三間堂跡地に移った。境内は拝領地。同寺北方の真宗真龍寺(現単立)は元和四年(一六一八)下谷肴店(したやさかなだな)に創建され、天和二年(一六八二)類焼したため下谷二丁目横町に移り、元禄一一年再度類焼したのち三十三間堂跡へ移転した。同寺北方にある曹洞宗松源寺は寛永六年には下谷車(したやくるま)坂下付近にあり、その後寺地を収公され、三十三間堂跡地に移転した。境内は拝領地。松源寺の西隣にあった真言宗龍光寺は創建年代不明、松平遠江守(桜井松平氏か)の別所願所という。三十三間堂の別当を勤め、同堂移転後その跡地の一部を与えられた。境内は拝領地。鎮守の矢先稲荷社は三十三間堂矢先的場の鎮守で、同堂移転後龍光寺境内に移された。浅草龍光寺門前・浅草浅留町・浅草坂本町など八町を氏子とした。同寺南方にあり、正定寺西裏にあたる真宗遍立寺(現真宗大谷派)は寛永年中の起立とされ、外桜田(そとさくらだ)(現千代田区)付近にあった。元禄年中に下谷車坂下に移り、同年中にさらに三十三間堂跡地へ移転した。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by