新橋通(読み)しんばしどおり

日本歴史地名大系 「新橋通」の解説

新橋通
しんばしどおり

[現在地名]津和野町中座なかざ

南谷みなみだに川が津和野川に合流する地点より少し北に架かる新橋からまる山北麓へ至る道(新橋通)に沿う家臣屋敷町。中座村および門林かどばやし村の耕地城下発展に伴い取込まれ、元禄期(一六八八―一七〇四)までに成立。元禄期城下侍屋敷等絵図(津和野町郷土館蔵)では、中座本通と交差し、新橋から十字路までは道幅一間五尺、北側は道河内どうがつちとよばれる丘陵地で、南側は南谷川脇の水田に接する。両側ともおもに長柄組足軽とその小頭などが居住。十字路より東方へは城下から笹山ささやま村を経て廿日市はつかいち(現広島県廿日市町)へ出る安芸廿日市あきはつかいち街道で、道幅は三間半と広かった。城下南東口に位置することから南側に亀井宮内家の御茶屋および的場、丸山南麓には鉄砲薬所があり、道沿いに亀井宮内組足軽と小者などが居住した。

新橋通
しんばしどおり

宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」に、「三条通より南へ四すじ目、新橋通 此通、東は知恩院山門、通俗に桜の馬場といふ所より、西は縄手通まで」、天保二年(一八三一)刊「京都巡覧記」に「同(三条縄手下ル)三筋め、新橋通 小堀より縄手迄」とみえる。三条より三筋目か四筋目かは、現在の若松わかまつ通を数えるか否かによる。

正徳三年(一七一三)の祇園領広小路畑地の造成開通したことは、同年正月一二日の祇園広小路新家地道幅定杭打渡絵図(上河原雄吉家文書)に「新道」と記されることからも明らかである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報