園村(読み)そのむら

日本歴史地名大系 「園村」の解説

園村
そのむら

[現在地名]平田市園町

多久たく村の東に位置する。北部は丘陵地であるが、南部は宍道湖に面し、平田船ひらたふな(船川)は地内の布崎ぬのざきで同湖に注ぐ。薗村とも記し、近世には楯縫たてぬい郡に属した。東は鹿園寺ろくおんじ村。正保四年(一六四七)の薗村検地帳では本郷分と布崎分に区別され、本郷は上々田一町四反余・分米二二石余(一石六斗代)、上田二町八反余・分米四二石(一石五斗代)、中田五町六反余・分米七八石余(一石四斗代)、下田七町余・分米八四石余(一石二斗代)下々田五町四反余・分米四八石余(九斗代)、上畠一町余・分米八石余(九斗代)、中畠一町二反余・分米八石余(七斗代)、下畠七反余・分米三石余(五斗代)。布崎は中田五反余・分米七石余(一石三斗代)、下田八反余・分米九石余(一石一斗代)、下々田七町二反余・分米五七石余(八斗代)、ほかに天神領五畝余(下々田)

園村
そのむら

[現在地名]氷見市園

氷見町の南部に位置し、十二町じゆうにちよう潟の南部に広がる平野と、半島状に張出した丘陵がある。北東はくぼ村・窪新村、南東は柳田やないだ村、北は朝日あさひ村。集落は平野南部にある丘陵の東側裾野にある。現岐阜県吉城よしき神岡かみおか町の常蓮じようれん寺蔵の延慶二年(一三〇九)正月下旬銘の鉦鼓に「越中国薗 揚田阿弥陀寺常什物」とある。慶長一〇年(一六〇五)の検地打渡状(木倉氏筆写史料)に「越中氷見郡ノ内園村検地之事 合三百弐拾三石弐斗九升五合者 毛付 右此外荒江堀道畔引捨打渡所」とある。

園村
ぎおんむら

[現在地名]岡山市祇園

今在家いまざいけ村の北、南流する旭川左岸にあり、南は国府市場こくふいちば村、たつくち山西端南麓にあたる。中原なかはら村のなか井手で旭川上流より取水する祇園用水は、当地の祇園大樋で古田こだ用水と新田用水に分岐した。村名は祇園宮が鎮座していることにちなむと伝える。慶長一〇年(一六〇五)の備前国高物成帳(備陽記)上道かみつみち郷に祇薗村とあり、寛永備前国絵図では高二一二石余。

園村
そのむら

[現在地名]和束町大字園

和束川の右岸に位置し、三面山を負い、南方のみ田野が開ける。地味は「其色赤黒錯雑、其質中等ニ属シ稍稲梁ニ適シテ桑茶ニ宜シ、然トモ水利不便ニシテ時々旱害」があった(京都府地誌)

江戸時代は和束郷の一村で、享保一四年(一七二九)山城国高八郡村名帳によれば高一九五・五二四石で禁裏新御料。明治一〇年代の調べによれば田一一町弱、畑七町余、戸口は七二戸、三二七人、物産として製茶があった(京都府地誌)

集落の東南園天満宮社域に大墓おおばかまた大塚おおつかとよばれる古墳があり、「山城志」は「土人云敦躬親王墓」と記し、「京都府地誌」は「鏡塚或ハミヤト塚ト称ス、(中略)周囲凡五十間」と記す。

園村
そのむら

古代には園松山そののまつやま園長浜そののながはまといわれた地で、「出雲国風土記」の神門かんど水海の項に「水海と大海との間に山あり。長さ二十二里二百三十四歩、広さ三里あり。此は意美豆努命の国引き坐しし時の綱なり。今俗人、号けて園松山と云ふ。地の形体、壌も石も並びになし。白き沙のみ積み上がれり。即ち松の林茂繁るも、四風吹く時は、沙飛び流れて松の林を掩ひ埋む」とある。斐伊川神戸かんど川が合流して日本海に注ぐ地域で、現在の外園そとぞの町・西園にしぞの町・東園町・荒茅あらかや町にあたる。

園村
そのむら

[現在地名]泊村園

泊村の西に位置し、日本海に面する。園川が日本海に注ぎ、伯耆街道が通る。地内で伯耆街道と倉吉往来が分岐し、倉吉往来は松崎まつざき(現東郷町)を経て山根やまね(現倉吉市)方面に至る。薗とも記された。拝領高三六二石余。宝暦三年(一七五三)頃の河村郡村々明細帳(近藤家文書)によれば朱高三九五石余、高四〇五石余、うち畑高三一石余。免五ツ五分、橋津はしづ御蔵(現羽合町)納。

園村
ぎおんむら

[現在地名]木更津市祇園・祇園一―四丁目・清見台きよみだい一―二丁目・永井作ながいさく一―二丁目・清見台東きよみだいひがし一―二丁目・清川きよかわ一丁目・清見台南きよみだいみなみ四―五丁目

菅生すごう村の西方に位置し、小櫃おびつ川の下流左岸を村域とする。ほぼ東西に久留里くるり道が通る。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高三二九石。元禄郷帳では高二六一石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳によれば家数四二、幕府領、旗本高尾・芝田両氏の相給。文化(一八〇四―一八)末年の上総望陀郡石高帳(慶応大学蔵)では武蔵岩槻藩領、前掲旗本二家領。

園村
そのむら

[現在地名]相良町大沢おおさわ

須々木すすき村の北東に位置し、北東はとく村、南は相良町。秋葉街道は相良城の北西にあたる当村の見付を起点とし、東海道掛川宿方面へ向かい、また金谷かなや宿(現金谷町)へ通ずる道も通る。文禄二年検地高目録に薗村とみえ、高三二〇石余。江戸時代の領主の変遷は波津はづ村と同じ。正保郷帳では田方二六五石余・畑方一一石余、ほかに般若はんにや寺領一六石五斗・若王子社(現若一王子神社)領一二石二斗余・小田林明神(現小田宮神社)領一石・万松まんしよう庵領三石・正福しようふく寺領四石八斗がある。

園村
そのむら

[現在地名]小松市園町・御宮町おみやまち

かけはし川下流左岸の平坦地にあり、度々水害に見舞われた。西は小松町、北の対岸は島田しまだ村、南は小寺こでら村。薗村とも記された。村名は花山法皇の御幸伝説にかかわると伝え、寛永一七年(一六四〇)前田利常が小松に隠居した際、家臣八人が当地に居住したという(小松市史)。正保郷帳では高一千一三四石余、田方六一町四反余・畑方五町三反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高一千一九二石、免五ツ五分、小物成は地子銀六五六匁(退転)・油役三匁(退転)・畳役五分(出来)であった(三箇国高物成帳)

園村
ぎおんむら

[現在地名]湖東町祇園

東・南・西を平柳ひらやなぎ村に囲まれる。彦根藩領平柳村の荒地を、貞享年間(一六八四―八八)より開墾、元禄二年(一六八九)平柳新田を開村し、同年の平柳村出在家新開地押改帳写(宮川文書)によれば一〇町五反余。元文二年(一七三七)の出在家新開地押改帳(同文書)によれば田畑合計九町八反余、文政四年(一八二一)出在家でざいけ村と改称し、慶応三年(一八六七)祇園村と改称した(湖東町史)。旧高旧領取調帳に祇園村とみえ、高二〇〇石。元禄八年大洞弁天寄進帳に平柳新田村とあり、男四五・女四五。

園村
ぎおんむら

[現在地名]長浜市祇園町・末広町すえひろちよう

琵琶湖東岸に面し、南は長浜町、北は相撲すまい村、東は列見れつけ村。北国街道が南北に通る。中世は祇園保として推移。天正一三年(一五八五)閏八月二一日の山内一豊知行目録(山内文書)に「きおん」とみえ高三二石。同地は同年九月一日に一豊の家臣五藤助右衛門に与えられた(五藤文書)。寛永石高帳では高七〇二石余、彦根藩領。文久二年(一八六二)一部が上知され、旧高旧領取調帳では彦根藩領四〇四石余、同藩預所二九八石余とある。

園村
そのむら

[現在地名]愛東町園

大林おおばやし村・下中野しもなかの村の南に位置する。永保二年(一〇八二)一〇月一三日の薗直米請取状案(山口光円氏本打聞集裏文書)に「薗」とみえ、延暦寺領か日吉社領であった。天正(一五七三―九二)末から慶長五年(一六〇〇)にかけては豊臣氏の支配下で、慶長四年一二月一日の豊臣氏大老連署知行安堵状案(毛利家文書)によれば、小倉鍋の子織田信吉に園村のうち四四二石余が宛行われた。同二〇年か元和三年(一六一七)に村高のうち四二〇石余が彦根藩領となったと推定され、寛永石高帳に「薗むら」とあり、高五二〇石余、うち彦根藩領四二〇石余、幕府領一〇〇石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報