日本歴史地名大系 「新涯村」の解説 新涯村しんがいむら 広島県:福山市旧深安郡地区新涯村[現在地名]福山市新涯町・新涯町一―六丁目・曙(あけぼの)町一―六丁目・一文字(いちもんじ)町・卸(おろし)町・新浜(しんはま)町一―二丁目・千代田(ちよだ)町新涯村で、慶応元年(一八六五)藩により造成が着手された。幕末の福山藩(阿部氏)の経済的な窮乏を切抜ける施策の一つとして行ったもので、川口(かわぐち)村字三(み)つ樋(ひ)と水呑(みのみ)村字箕島幸崎(みのしまこうざき)山に、それぞれ作業小屋をつくり、家老佐原作右衛門・下宮三郎右衛門・内藤角右衛門をはじめ藩の重臣を新涯掛に任じ、分郡庄屋・組頭を配属し、城下町・分郡の百姓を総動員している。ところが福山藩は慶応元年から二年にかけて二回も長州征伐出陣を命じられ、この間休止し、再開は同三年正月、築堤を急いで、同年六月に潮止めを行っている。 新涯村しんがいむら 大分県:東国東郡国見町新涯村[現在地名]国見町野田(のだ)櫛海(くしのみ)村の東にあり、北は伊美中(いみなか)村、南は野田村。寛永九年(一六三二)以降杵築藩領であったが、貞享元年(一六八四)村の北部は同藩分知領となり、同所は元文二年(一七三七)以降幕府領となる。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、高二九八石余、すべて蔵納。家数六三、うち百姓本屋三〇・山ノ口本屋一、隠居・庭屋・牛屋・名子ともに三二、人数一〇三、うち百姓三〇・名子八、牛二三・馬二。正保郷帳では伊美(いみ)庄に属し、田高九七石余・畑高一四九石余。茅山・柴山・新田がある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報