コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

福山藩 ふくやまはん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

福山藩
ふくやまはん

(1) 江戸時代,備後国 (広島県) 福山地方を領有した藩。元和5 (1619) 年福島正則の除封により水野勝成大和郡山 (奈良県) から 10万石 (のち 10万 1000石) で入封したのに始る。元禄 11 (98) 年水野氏は能登 (石川県) 西谷へ移封し,同 13年出羽山形 (山形県) から松平 (奥平) 忠雅が 10万石で入封,宝永7 (1710) 年まで続いた。忠雅の伊勢 (三重県) 桑名移封に代って,阿部正邦が下野 (栃木県) 宇都宮から 10万石で入封。安政期に斬新的な幕政改革を行なった老中阿部正弘が出て,10代正桓の代に廃藩置県にいたった。阿部氏は譜代,江戸城帝鑑間詰。 (2) 松前藩の別称。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について | 情報

百科事典マイペディアの解説

福山藩【ふくやまはん】

備前(びぜん)国福山に藩庁をおいた譜代(ふだい)藩。1619年福島正則(まさのり)が改易後,水野氏が入封して立藩。同氏の後,松平(奥平)氏・阿部氏と変遷。備前国南部で領知高10万石〜11万石。
→関連項目備後国

福山藩【ふくやまはん】

松前藩

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト百科事典マイペディアについて | 情報

世界大百科事典 第2版の解説

ふくやまはん【福山藩】

備後国(広島県)福山に藩庁を置いた譜代藩。領知高10万石。1619年(元和5)芸備両国を領していた福島正則改易のあと,水野勝成(かつなり)が大和国郡山から入封して成立。備後7郡と備中国小田,後月(しづき)郡の一部を領有した。勝成は幕府の配慮を得て,深津郡野上村を中心に城郭と城下町を建設し,領内外から商工業者の来往を誘致した。また領国経済の基礎を固めるため,大規模な新田を開発して新しい村や用水関係を整え,備後表(びんごおもて)や木綿栽培など商品作物を奨励した。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

福山藩
ふくやまはん

備後(びんご)国福山(広島県福山市)地方を領有した徳川譜代(ふだい)藩。1619年(元和5)福島正則(まさのり)改易のあと、水野勝成(かつなり)が大和(やまと)国(奈良県)郡山(こおりやま)から、備後7郡と備中(びっちゅう)国(岡山県)小田(おた)・後月(しづき)郡の一部10万石に入封。勝俊(かつとし)、勝貞(かつさだ)、勝種(かつたね)、勝岑(かつみね)と5代続くが、1698年(元禄11)勝岑が病死し、嗣子(しし)なく断絶する。初代勝成は幕府の特別の計らいで、一国一城令で廃城になった伏見(ふしみ)城の櫓(やぐら)・筋鉄(すじがね)御門などの遺構を入手し、深津郡野上(のがみ)村の常興寺(じょうこうじ)山に、城郭史上江戸時代でもっとも遅い時期に福山城を築き、一面の葭原(よしはら)に城下町を建設して、中国地方外様(とざま)大名の間に楔(くさび)を打ち込んだ。水野氏は、大規模な新田開発や用水池を整え、備後表、木綿栽培、塩田経営などを奨励し、1630年(寛永7)全国に先駆けて藩札を発行した。1698年水野遺領は幕府領になる。1699年幕府の命により岡山藩が検地を実施し、10万石の旧領知高を5万石打出しの15万石に決定した。
 1700年(元禄13)出羽国山形より松平(奥平)忠雅(ただまさ)が、備後5郡10万石に入封した。深津・沼隈(ぬまくま)両郡27か村を分けて分郡をつくり6郡となる。残る5万石は幕府領とし、備後領4万石弱を甲奴(こうぬ)郡上下(じょうげ)代官所支配、備中領1万石を小田郡笠岡(かさおか)代官所付に分けた。その後、1717年(享保2)豊前(ぶぜん)国(大分県)中津に入封した奥平昌成(まさしげ)の中津藩備後領に2万石余があてられ、また、1853年(嘉永6)阿部正弘(あべまさひろ)の老中として幕政に貢献した功により1万石の加増があったので、幕府備後領はわずかに1万石弱となっている。
 1710年(宝永7)松平忠雅の伊勢(いせ)国(三重県)桑名(くわな)に転封の後を受け、阿部正邦(まさくに)が下野(しもつけ)国(栃木県)宇都宮から入封、正福(まさよし)、正右(まさすけ)、正倫(まさとも)、正精(まさきよ)、正寧(まさやす)、正弘、正教(まさのり)、正方(まさかた)、正桓(まさたけ)と10代続き維新を迎えた。阿部氏は、正福が大坂城代に任じられたのをきっかけにふたたび幕府要職につくようになり、正右が奏者番(そうじゃばん)・寺社奉行(ぶぎょう)・京都所司代(しょしだい)・老中、正倫が奏者番・寺社奉行・老中、正精が奏者番・寺社奉行・老中、正寧が奏者番、正弘が奏者番・寺社奉行・老中と6代にわたって歴任している。藩主は代々定府(じょうふ)、1000人近い家臣団が江戸常駐のため、江戸出費がかさみ慢性的な財政難に苦しんだ。1770年(明和7)と86、87年(天明6、7)の両度に年貢減免を要求した全藩一揆(いっき)にみまわれる。正倫は老中を辞し、藩政立直しの寛政(かんせい)の改革を実施した。正弘は藩政にも意を注ぎ、1853年、江戸と福山に藩校誠之館(せいしかん)を開設し、学問教育を奨励、人材登用の道を開くとともに、軍制改革や殖産興業政策を積極的に行った。1869年(明治2)の藩制改革では、藩公議院を設置し、上院は藩士会議的性格、下院は郡町公選の議員10名で構成するなど、全国でも珍しい議会制を敷いた。71年福山県となり、深津・小田・岡山県を経て76年広島県に編入された。[土井作治]
『『福山市史』全3巻(1963~78・福山市) ▽後藤陽一著『広島県の歴史』(1972・山川出版社) ▽『広島県史 近世1・2』(1981、84・広島県)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について | 情報 凡例

世界大百科事典内の福山藩の言及

【阿部氏】より

…のち相模小田原,武蔵岩槻と転じ,たびたび加増されて8万6000石を領する。その後正邦のとき,丹後宮津,下野宇都宮を経て1710年(宝永7)備後福山に移封,以後幕末に至る(福山藩)。領知高は宇都宮転封時に10万石,1852年(嘉永5)正弘のとき11万石となる。…

【イグサ(藺草)】より

…備後表は室町以来引通(ひきとおし)表であったが,1602年(慶長7)短いイグサも活用できる中継(なかつぎ)表が発明され,広島藩主福島正則の奨励もあっておおいに発展し,沼隈郡では48年(慶安1)機数1619台,1833年(天保4)には2751台を数えた。備後表は広島藩(のち福山藩)が領内の特産として献上表と称し,厳選して幕府に献上したが,幕府は株仲間商人を通し御用表を買い上げた。しかし備後表の大部分は商用表で,城下の株仲間を通し福山から大坂に送られた。…

【備後国】より

…また刀狩や町・在の区別,交通路の整備,産業の開発などを手がけ,近世的体制の基礎を成立させた。 19年(元和5)福島正則は広島城の無許可修築を理由に改易となり,広島に浅野長晟(ながあきら)(42万石),福山に水野勝成(かつなり)(10万石)が入封し,備後国は北部を中心に8郡が広島藩領,南部を中心に7郡が福山藩領となり,新たに福山の地に10万石の城下町が誕生した。32年(寛永9)広島藩主浅野光晟は,庶兄長治に三次・恵蘇両郡を中心に5万石を分与し,支藩として三次藩を成立させた。…

※「福山藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

福山藩の関連キーワード備後天明の一揆遠藤理左衛門吉田助右衛門広島[県]河相清兵衛府中[市]河相周兵衛油木[町]契利斯督記伊藤梅宇江木鰐水門田樸斎村士玉水久我房三石井盈比伊藤蘭畹関藤藤陰本庄重政大国隆正松平忠雅

今日のキーワード

俳句甲子園

1998年から松山市で開かれる全国高等学校俳句選手権大会。高校生が5人1組で句の優劣をディベートで競い合う。チームでの勝敗とは別に、個人の最優秀句も選ぶ。今年は過去最多の41都道府県から121校、15...

続きを読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android

福山藩の関連情報