改訂新版 世界大百科事典 「新漢人旻」の意味・わかりやすい解説
新漢人旻 (いまきのあやひとみん)
生没年:?-653(白雉4)
百済系の学僧で大化改新期の国博士。608年(推古16)隋使裴世清の帰国のさい派遣された小野妹子に同行し,高向玄理(たかむくのくろまろ)・南淵請安(みなぶちのしようあん)らとともに渡隋。《日本書紀》で新漢人日文(にちもん)とあるが,帰国した632年(舒明4)以降はすべて僧旻と記す。仏教,天文に通じ,中臣鎌子,蘇我入鹿など貴族の子弟を集めて周易を講じたことが《大織冠伝》にみえる。蘇我氏滅亡後の改新政治の実施にあたって高向玄理とともに国博士として参画し,中央官制の改革をはじめとする基本政策の立案につくした。650年(白雉1)穴門(長門国)からの白雉貢上のさい,白雉祥瑞の意義を建白して重用された。孝徳天皇の厚遇をうけ,653年(一説に654年)死にあたって〈もし法師今日亡なば,朕従ひて明日亡なむ〉と勅したという。阿曇寺で没したとも伝える。隋~唐の中国統一王朝の交替期における滞在の体験と中国政治思想に根ざした学識が改新に生かされたといえる。
執筆者:八木 充
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報