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高向玄理 たかむこのくろまろ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

高向玄理
たかむこのくろまろ

[生]?
[没]白雉5 (654).2./白雉5 (654).3. 長安
古代の学者。渡来人の子孫で,本姓は高向漢人(たかむこのあやひと)。推古16(608)年第2回の遣隋使の際,小野妹子に従って渡海し,留学生としてに学んだ。留学すること 32年,舒明12(640)年に帰国。皇極4=大化1(645)年の大化改新では国博士に任じられ最高顧問となり,翌大化2(646)年には新羅に派遣された。同 5年僧とともに勅命によって八省百官の制を定めるなど,国政上に活躍。白雉5(654)年第3回の遣唐使に押使(おうし)として入唐。唐の朝廷に国威を示した。

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百科事典マイペディアの解説

高向玄理【たかむくのくろまろ】

大化改新の功労者。〈たかむこのげんり〉とも。百済(くだら)系渡来人の子孫で,608年留学生として遣隋使小野妹子(いもこ)に従って渡海。645年の大化改新のクーデタで新政権が成立すると国博士(くにはかせ)に任ぜられ,政府の最高顧問となった。
→関連項目新漢人旻国博士渡来人

高向玄理【たかむくのげんり】

高向玄理(たかむくのくろまろ)

高向玄理【たかむこのげんり】

高向玄理(たかむくのくろまろ)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

高向玄理 たかむこの-くろまろ

?-654 飛鳥(あすか)時代の官吏。
推古天皇16年小野妹子(いもこ)にしたがって隋(ずい)(中国)に留学。帰国後,大化(たいか)元年僧旻(みん)とともに国博士に任じられ,国政に参加。白雉(はくち)5年遣唐押使として唐にわたり,その年唐で没した。名は黒麻呂ともかく。

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朝日日本歴史人物事典の解説

高向玄理

没年:白雉5.5(654)
生年:生年不詳
7世紀中ごろの学者で国博士。「たかむこのくろまろ」ともよみ,高向史玄理,高向博士黒麻呂,高向黒麻呂などと書かれる。玄理は中国風の表記で,隋唐滞在中に高玄理と称したか。河内の錦部の高向(河内長野市)に住んだ百済系渡来人の漢人の出で,推古16(608)年遣隋使小野妹子に従って隋へ留学した学生,学問僧8人のうちのひとり。舒明12(640)年南淵請安らと共に新羅を経て32年ぶりに帰国。乙巳の変(645)後に成立した孝徳朝の新政権で僧旻と並んで国博士になり,中国における長年の儒教をはじめとする学問,思想の研鑽と現実の体験をもとに,天皇や支配層のイデオローグあるいは国政上のブレーンの役割を担った。大化2(646)年には遣新羅使として新羅との外交折衝に当たり,翌年,その相手方の政権を担当する金春秋(のちの武烈王)を伴って帰国した。同5年,中央官司の設置に関与したのち,遣唐押使として外交路線を探るため新羅経由で唐に渡り,高宗に会見したが,不調のままその地で客死した。

(鈴木靖民)

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世界大百科事典 第2版の解説

たかむくのくろまろ【高向玄理】

?‐654(白雉5)
大化改新期の国博士。漢人(あやひと)を称する百済帰化人の子孫。〈たかむこ〉ともよみ,姓(かばね)は史,黒麻呂とも書く。608年(推古16)遣隋使小野妹子に従って,学生として渡海。640年(舒明12),新羅を経て南淵請安らと帰国するまでの長期間にわたって滞在し,隋唐王朝の興亡を目のあたりに見聞した。645年(大化1)蘇我本宗家が滅亡し,新政権が成立すると,僧旻(みん)(新漢人(いまきのあやひと)旻)とともに国博士に登用され,改新政策の立案にあたった。

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大辞林 第三版の解説

たかむこのくろまろ【高向玄理】

?~654) 大化改新期の国博士。黒麻呂とも。608年小野妹子に従って隋に留学。640年帰朝。大化改新で僧旻みんとともに国博士に任ぜられ、新政権の政策の立案にあたった。のち遣唐押使として入唐、当地で没。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

高向玄理
たかむこのくろまろ
(?―654)

飛鳥(あすか)時代の遣隋(けんずい)留学生。帰国後、大化改新政権の政治顧問。正しくは「げんり」と読む。「黒麻呂(くろまろ)」とも記す。高向氏は6世紀に渡来した氏族。608年(推古天皇16)遣隋使小野妹子(おののいもこ)に従って隋に留学。その期間は33年にも及び、その間、隋の滅亡と唐の成立を目の当たりにした。政治・制度に関する豊富な学識と海外情勢にも明るいことから、帰国後、大化改新政権において、僧旻(みん)とともに国政最高顧問である国博士(くにのはかせ)に任ぜられ、改新政治のブレーンとして活躍した。また646年(大化2)には新羅(しらぎ)に、654年(白雉5)には唐に派遣され、外交面においても重要な役割を果たしたが、同年唐の都長安で客死した。[菊地照夫]
『井上光貞著『日本の歴史3 飛鳥の朝廷』(1974・小学館)』

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世界大百科事典内の高向玄理の言及

【唐】より

…この進言は,630年(舒明2)の第1次遣唐使として実現し,これ以後9世紀半ばまでに十数回の遣唐使が派遣されることになる。また第1次遣唐使帰国の際には,二十数年間中国に滞在していた僧旻(みん)(新漢人旻(いまきのあやひとみん))ら留学生もいっしょに帰り,さらに10年後には,留学生の南淵請安(みなぶちのしようあん),高向玄理(たかむくのくろまろ)らも唐から帰国した。彼らは,隋が滅び唐の国家が形成される経過を目のあたりに見てきたと推測されるが,彼らの知識と体験は,大化改新の際に重要な役割を果たした。…

【留学】より

…これ以後,古代の留学生はすべて男性と推定される。 7世紀初めに久しく中絶していた中国王朝との外交が再開されると,608年(推古16)遣隋使小野妹子に従って,高向玄理(たかむくのくろまろ),僧旻(新漢人旻(いまきのあやひとみん)),南淵請安(みなぶちのしようあん)ら8人の学生・学問僧が隋に渡った。彼らは,二十数年から三十数年の長期間にわたって中国に滞在し,隋が滅び,唐が興ってくる中国の社会を実見して帰国し,大化改新に始まる律令国家の建設に大きな役割を果たした。…

※「高向玄理」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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