(1)大化改新の際に一時置かれた官職。645年(大化1)6月に成立した改新政府は新たに左右大臣・内臣とともに国博士を置き,僧旻(新漢人旻(いまきのあやひとみん))と高向玄理(たかむくのくろまろ)をこれに任じた。主として新制度・政策の立案・推進に当たる臨時的な職とみられ,《日本書紀》では大化5年(649)是月条の〈博士高向玄理と釈僧旻とに詔して,八省百官を置かしむ〉という記事を最後に,この官名は両人の肩書から消えている。
(2)古代の律令制度下における地方の国学の教官。規定によれば国ごとに経学等の素養のあるもの1名を部内から採用して,国司の監督の下で国学生の教育・指導に当たらせ,もし部内に適任者がない場合には傍国から採用させ,その考限・叙法すなわち勤務評定や昇進の方式などは郡司と同じくし,いったん補任した後は故なくして解任できない定めであった。実際には適任者が得がたいことが多かったため,そのときは式部省が選擬して中央出身者を任命することが703年(大宝3)3月に認められ,その場合の考選(勤務評定と昇進)は諸国の史生に准じて行うこととなった。723年(養老7)10月に畿外で按察使(あぜち)がいる13ヵ国以外の国博士が廃止されたが,779年(宝亀10)閏5月に旧に復した。
執筆者:関 晃
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(1)645年(大化1)の大化改新の際に設置された政府の政治顧問。入唐し、かの地で学んだ沙門旻(しゃもんみん)法師、高向史玄理(たかむこのふひとくろまろ)の両名が任じられた。
(2)令制(りょうせい)における国学の教官の名称。令制では、国ごとに国博士が1名置かれ、教授課試、外国使節の応接にあたることになっていた。原則として国内から任用され、国内に任に堪える人材がいない場合には傍国からの任用を許した。さらに703年(大宝3)には、傍国にもいない場合、中央から任命することになった。当国の国博士は徭役(ようえき)を、傍国のものは課役のすべてを免じられ、また職分田(しきぶんでん)6段と公廨稲(くがいとう)が支給された。
[荒木敏夫]
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「日本書紀」皇極4年(645)6月14日条で,僧旻(みん)と高向玄理(たかむこのげんり)が任じられた官職。大化2年(646)9月に小徳高向博士黒麻呂(玄理)を新羅(しらぎ)に派遣し,同3年博士小徳高向黒麻呂が帰朝したとする記事の博士,同5年2月の博士である高向玄理と旻に詔して八省・百官をおかせたとする記事の博士は,みな国博士と同じもので,改新政府のブレーン的な役割を担っていたと考えられるが,記事の信憑性も含めて明らかでない点が多い。
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…百済系の学僧で大化改新期の国博士。608年(推古16)隋使裴世清の帰国のさい派遣された小野妹子に同行し,高向玄理(たかむくのくろまろ)・南淵請安(みなぶちのしようあん)らとともに渡隋。…
…国の等級に従い,学生は50・40・30・20名,医生は10・8・6・4名の定員がある。教官には国博士,国医師各1名のほかに国郡司で儒学の経書に精通している者がなる。試験は国司が行う。…
※「国博士」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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