出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
(1)645年(大化1)の大化改新の際に設置された政府の政治顧問。入唐し、かの地で学んだ沙門旻(しゃもんみん)法師、高向史玄理(たかむこのふひとくろまろ)の両名が任じられた。
(2)令制(りょうせい)における国学の教官の名称。令制では、国ごとに国博士が1名置かれ、教授課試、外国使節の応接にあたることになっていた。原則として国内から任用され、国内に任に堪える人材がいない場合には傍国からの任用を許した。さらに703年(大宝3)には、傍国にもいない場合、中央から任命することになった。当国の国博士は徭役(ようえき)を、傍国のものは課役のすべてを免じられ、また職分田(しきぶんでん)6段と公廨稲(くがいとう)が支給された。
[荒木敏夫]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
「日本書紀」皇極4年(645)6月14日条で,僧旻(みん)と高向玄理(たかむこのげんり)が任じられた官職。大化2年(646)9月に小徳高向博士黒麻呂(玄理)を新羅(しらぎ)に派遣し,同3年博士小徳高向黒麻呂が帰朝したとする記事の博士,同5年2月の博士である高向玄理と旻に詔して八省・百官をおかせたとする記事の博士は,みな国博士と同じもので,改新政府のブレーン的な役割を担っていたと考えられるが,記事の信憑性も含めて明らかでない点が多い。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…百済系の学僧で大化改新期の国博士。608年(推古16)隋使裴世清の帰国のさい派遣された小野妹子に同行し,高向玄理(たかむくのくろまろ)・南淵請安(みなぶちのしようあん)らとともに渡隋。…
…国の等級に従い,学生は50・40・30・20名,医生は10・8・6・4名の定員がある。教官には国博士,国医師各1名のほかに国郡司で儒学の経書に精通している者がなる。試験は国司が行う。…
※「国博士」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
アデノウイルスの感染により、発熱、のどのはれと痛み、結膜炎の症状を呈する伝染性の病気。感染症予防法の5類感染症の一。学童がプールで感染して集団発生するのでプール熱ともいう。...
11/10 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/26 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典を更新
10/19 デジタル大辞泉を更新
10/19 デジタル大辞泉プラスを更新
10/10 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
9/11 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新