生没年不詳。飛鳥(あすか)時代の遣隋使(けんずいし)。隋では「小妹子」を字音でいいかえ蘇因高(そいんこう)とよんだ。607年(推古天皇15)聖徳太子が隋と国交するにあたり、第1回遣隋使となり通訳鞍作福利(くらつくりのふくり)を従えて渡海した。『隋書』倭国(わこく)伝に「大業三年(607)、其ノ王多利思比孤(たりしひこ)(聖徳太子)、使ヲ遣シテ朝貢ス」とあり、朝廷の使者は「聞ク、海西ノ菩薩(ぼさつ)天子、重ネテ仏法ヲ興スト。故ニ遣シテ朝拝セシメ、兼ネテ沙門(しゃもん)数十人、来ッテ仏法ヲ学ブ」と述べたとあるので、小野妹子は学問僧数十人を伴っていたのである。また国書に「日出ズル処ノ天子、書ヲ日没スル処ノ天子に致ス。恙(つつが)無キヤ」とあったので、煬帝(ようだい)はこれをみて悦(よろこ)ばず、鴻臚卿(こうろけい)に「蛮夷(ばんい)ノ書、無礼ナル者有リ。復(ま)タ以(も)ッテ聞スル勿(なか)レ」といったという。翌年隋使裴世清(はいせいせい)を連れて帰朝したが、煬帝からの国書は百済(くだら)人に奪い取られたと称して献上しなかった。そのため群臣議して妹子の責任を問い、流刑に処すべきだとしたが、推古(すいこ)天皇は妹子の書を失う罪を許した。608年9月、裴世清の帰国に際し、ふたたび大使となり、小使吉士雄成(きしのおなり)、通事鞍作福利とともに隋に渡った。僧旻(みん)、高向玄理(たかむこのくろまろ)、南淵請安(みなみぶちのしょうあん)らの学問僧、留学生も入隋した。妹子らは翌年9月に帰朝したが、福利のみは帰国しなかった。その後、妹子は大礼から大徳冠に昇進したらしい。妹子の子に小野朝臣(あそみ)毛人(えみし)がある。
[志田諄一]
推古朝の官人。生没年不詳。和珥(わに)氏,春日氏の同族で臣姓。近江国滋賀郡小野村(滋賀県大津市)を本拠とする。607年(推古15),遣隋使として中国に渡る。冠位は大礼(十二階の第5階)。隋では蘇因高と呼ばれた。《隋書》によれば,このとき〈日出づる処の天子,書を日没する処の天子に致す〉という国書を呈し,煬帝(ようだい)を不快にさせたという。翌608年,隋使の裴世清(はいせいせい)らを伴って帰国。帰途,隋の国書を百済人に奪われたと報告したが,国書の内容が朝廷の期待するものと異なっていたので,みずから破棄したともいわれる。同年,裴世清らの帰国の際に,《日本書紀》によれば〈東天皇啓白西皇帝〉の国書をたずさえ,大使として再び隋に渡った。小使は吉士雄成,通事は鞍作福利で,高向玄理・南淵請安・僧旻(みん)ら留学生・学問僧8人が随行した。翌609年帰国。その後の事跡は明らかでないが,冠位は大徳(十二階の第1階)にまで昇った。毛人(えみし)(墓誌残存)は子,毛野(けぬ)は孫にあたる。
→小野氏
執筆者:吉田 孝
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
(仁藤敦史)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
生没年不詳。7世紀前半の豪族。子に毛人(えみし),孫に毛野(けの)がいる。推古朝の対隋交渉に活躍した。607年(推古15)大礼であった妹子は「日出づる処の天子,書を日没する処の天子に致す」という国書をもって渡海。隋の煬帝(ようだい)の不興をかったが,返答使裴世清(はいせいせい)をともなって帰国することができた。翌年裴世清の帰国時には再び送使として入隋した。607年の遣隋使は,「隋書」によれば600年につぐ第2次の遣使であったことが知られる。中国名は蘇因高(そいんこう)。609年の帰国後の消息は不明。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…ただし新羅は日本より先にしばしば使者を送っており,外交的にはあまり効果をあげなかったらしいが,この後国内では冠位十二階・十七条憲法の制定など推古朝の主要な改革が行われた。607年(推古15,大業3),小野妹子(いもこ)・鞍作福利(くらつくりのふくり)らをつかわしたことが《日本書紀》にみえ,これと対応する有名な〈日出処の天子書を日没する処の天子に致す〉の国書をたずさえて行き煬帝の不興を買ったことが《隋書》に見える。妹子は翌年隋使裴世清(はいせいせい)らを伴って帰国したが,隋の国書を途中で紛失している。…
…また対外的にも積極策に転じ,南では即位早々林邑(りんゆう)(現在のベトナム南部)を攻撃したが,608年には赤土国(スマトラのジャンピあるいはパレンバン付近)が入貢し,610年には朝貢のすすめに応じない流求国(台湾あるいはフィリピン)を侵略している。聖徳太子が607年小野妹子を派遣したのも,こうした煬帝の積極外交と無関係ではない。西方では煬帝みずから吐谷渾(とよくこん)を討って西域交通路を確保,高昌国ほか27国が来貢した。…
※「小野妹子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新