小野妹子(読み)オノノイモコ

デジタル大辞泉 「小野妹子」の意味・読み・例文・類語

おの‐の‐いもこ〔をの‐〕【小野妹子】

日本最初の遣隋大使。推古天皇15年(607)隋に渡り、翌年、隋使裴世清はいせいせいとともに帰国同年、再び渡海生没年未詳。→遣隋使

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精選版 日本国語大辞典 「小野妹子」の意味・読み・例文・類語

おの‐の‐いもこ【小野妹子】

  1. 最初の遣隋使。推古天皇一五年(六〇七聖徳太子の命で「日出天子、致書日没処天子、無恙哉」の国書を携えて隋に渡り、翌年隋使裴世清(はいせいせい)とともに帰国。同年再び留学生学問僧を率いて渡海した。大徳冠。生没年不詳。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「小野妹子」の意味・わかりやすい解説

小野妹子
おののいもこ

生没年不詳。飛鳥(あすか)時代の遣隋使(けんずいし)。隋では「小妹子」を字音でいいかえ蘇因高(そいんこう)とよんだ。607年(推古天皇15)聖徳太子が隋と国交するにあたり、第1回遣隋使となり通訳鞍作福利(くらつくりのふくり)を従えて渡海した。『隋書』倭国(わこく)伝に「大業三年(607)、其ノ王多利思比孤(たりしひこ)(聖徳太子)、使ヲ遣シテ朝貢ス」とあり、朝廷使者は「聞ク、海西ノ菩薩(ぼさつ)天子、重ネテ仏法ヲ興スト。故ニ遣シテ朝拝セシメ、兼ネテ沙門(しゃもん)数十人、来ッテ仏法ヲ学ブ」と述べたとあるので、小野妹子は学問僧数十人を伴っていたのである。また国書に「日出ズル処ノ天子、書ヲ日没スル処ノ天子に致ス。恙(つつが)無キヤ」とあったので、煬帝(ようだい)はこれをみて悦(よろこ)ばず、鴻臚卿(こうろけい)に「蛮夷(ばんい)ノ書、無礼ナル者有リ。復(ま)タ以(も)ッテ聞スル勿(なか)レ」といったという。翌年隋使裴世清(はいせいせい)を連れて帰朝したが、煬帝からの国書は百済(くだら)人に奪い取られたと称して献上しなかった。そのため群臣議して妹子の責任を問い、流刑に処すべきだとしたが、推古(すいこ)天皇は妹子の書を失う罪を許した。608年9月、裴世清の帰国に際し、ふたたび大使となり、小使吉士雄成(きしのおなり)、通事鞍作福利とともに隋に渡った。僧旻(みん)、高向玄理(たかむこのくろまろ)、南淵請安(みなみぶちのしょうあん)らの学問僧、留学生も入隋した。妹子らは翌年9月に帰朝したが、福利のみは帰国しなかった。その後、妹子は大礼から大徳冠に昇進したらしい。妹子の子に小野朝臣(あそみ)毛人(えみし)がある。

[志田諄一]

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改訂新版 世界大百科事典 「小野妹子」の意味・わかりやすい解説

小野妹子 (おののいもこ)

推古朝の官人。生没年不詳。和珥(わに)氏,春日氏の同族で臣姓。近江国滋賀郡小野村(滋賀県大津市)を本拠とする。607年(推古15),遣隋使として中国に渡る。冠位は大礼(十二階の第5階)。隋では蘇因高と呼ばれた。《隋書》によれば,このとき〈日出づる処の天子,書を日没する処の天子に致す〉という国書を呈し,煬帝(ようだい)を不快にさせたという。翌608年,隋使の裴世清(はいせいせい)らを伴って帰国。帰途,隋の国書を百済人に奪われたと報告したが,国書の内容が朝廷の期待するものと異なっていたので,みずから破棄したともいわれる。同年,裴世清らの帰国の際に,《日本書紀》によれば〈東天皇啓白西皇帝〉の国書をたずさえ,大使として再び隋に渡った。小使は吉士雄成,通事は鞍作福利で,高向玄理・南淵請安・僧旻(みん)ら留学生・学問僧8人が随行した。翌609年帰国。その後の事跡は明らかでないが,冠位は大徳(十二階の第1階)にまで昇った。毛人(えみし)(墓誌残存)は子,毛野(けぬ)は孫にあたる。
小野氏
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朝日日本歴史人物事典 「小野妹子」の解説

小野妹子

生年:生没年不詳
推古朝(593~628)の遣隋使。中国では字音から蘇因高と呼ばれた。子は毛人。孫は毛野。『新撰姓氏録』によれば,敏達朝に,妹子が近江国滋賀郡小野村(滋賀県志賀町小野)に居住したので,小野姓を称したという。推古15(607)年,通事鞍作福利らと共に第2次の遣隋使として渡海する。そのときの冠位は5番目の大礼で,さほど高位ではなく,厩戸皇子(聖徳太子)の推挙により選任されたらしい。『隋書』によれば,「日出づる処の天子,書を日没する処の天子に致す。恙なきや」という有名な,対等の国書を持参したため,煬帝はその無礼を責めたとされる。しかし,隋は高句麗を牽制する必要から妹子に返書を与え,使者を添え遣わすことになる。翌年,隋使裴世清および下客12名と共に帰国。推古天皇に対し,煬帝からの国書を百済人に奪われてしまったことを報告すると,群臣はその失態を責めて流刑にすべきとしたが,天皇は隋使をはばかって,これを許している。隋からの返書が日本を朝貢国として扱う尊大な内容であることを知り,偽って天皇に提出しなかったと解釈されている。同年,隋使の帰国に際し再び大使として隋に渡ったが,このときの国書には「東の天皇,敬みて西の皇帝に曰す」とある。僧旻,高向玄理,南淵請安ら学生,学問僧ら8名が同行し,彼らはのちに孝徳朝の改新政府で国博士として活躍する。推古17年に帰国するが,通事の福利のみが帰らなかった。帰国後に大礼から大徳に昇進したらしい。

(仁藤敦史)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「小野妹子」の意味・わかりやすい解説

小野妹子
おののいもこ

古代 (推古朝頃) の官人。隋では蘇因高と称した。天押帯日子命 (あめおしたらしひこのみこと) の後裔と伝えられる。近江国滋賀郡小野の出といわれる。推古 15 (607) 年聖徳太子に登用され,最初の遣隋使として中国に渡った。地位は大礼。翌年隋使裴世清 (はいせいせい) ,下客 12人とともに帰国。朝廷は難波吉士雄成 (なにわのきしのおなり) を筑紫につかわして裴世清を迎え,難波の津の新館に住わせた。妹子は,隋の煬帝 (ようだい) から授かった国書を途中で百済人にかすめ取られた旨を報告。朝廷はその罪をとがめ,妹子を流刑に処そうとしたが,隋使来朝を考慮して特に許した。おそらくその国書は,日本を隋の朝貢国として扱うという内容であったためであろう。同 16年裴世清の帰国に際し,再び遣隋大使に任じられた。これには小使吉士雄成,通事鞍作福利 (くらつくりのふくり) のほかに高向玄理 (たかむこのくろまろ) ,南淵請安 (みなぶちのしょうあん) ら学生,学問僧8人が随行した。妹子は翌年帰国。のち大徳冠となる。中国における隋統一帝国の成立に対応した,聖徳太子の新しい外交政策の実践者としてその使命を果し,その業績は遣唐使の派遣として後世に引継がれた。

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百科事典マイペディア 「小野妹子」の意味・わかりやすい解説

小野妹子【おののいもこ】

生没年不詳。飛鳥(あすか)時代の遣隋使。607年聖徳太子に選ばれて遣隋使となり,煬帝(ようだい)に国書を提出し,翌年隋使裴世清(はいせいせい)とともに帰国。再び裴世清らを送り隋に渡る。
→関連項目新漢人旻小野篁志賀[町]南淵請安

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「小野妹子」の解説

小野妹子 おのの-いもこ

?-? 飛鳥(あすか)時代の遣隋使(けんずいし)。
推古天皇15年(607)聖徳太子の命により「日出(い)ずる処の天子,書を日没する処の天子に致す」という国書をもって隋(中国)に派遣され,16年隋使の裴世清(はい-せいせい)をともなって帰国。隋の返書の尊大さをあやぶんでか,帰国途中返書をうしなったとして提出しなかった。同年僧旻(みん),高向玄理(たかむこの-くろまろ),南淵請安(みなぶちの-しょうあん)ら留学生,学問僧とともにふたたび隋にむかい,17年帰国した。隋では蘇因高(そ-いんこう)とよばれた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「小野妹子」の解説

小野妹子
おののいもこ

生没年不詳。7世紀前半の豪族。子に毛人(えみし),孫に毛野(けの)がいる。推古朝の対隋交渉に活躍した。607年(推古15)大礼であった妹子は「日出づる処の天子,書を日没する処の天子に致す」という国書をもって渡海。隋の煬帝(ようだい)の不興をかったが,返答使裴世清(はいせいせい)をともなって帰国することができた。翌年裴世清の帰国時には再び送使として入隋した。607年の遣隋使は,「隋書」によれば600年につぐ第2次の遣使であったことが知られる。中国名は蘇因高(そいんこう)。609年の帰国後の消息は不明。

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旺文社日本史事典 三訂版 「小野妹子」の解説

小野妹子
おののいもこ

生没年不詳
7世紀の官人で,2度派遣された遣隋使
近江滋賀郡小野の豪族。607年聖徳太子の派遣した遣隋使として隋におもむき,「日出づる処の天子……」に始まる国書を呈し,隋の煬帝 (ようだい) の怒りをかった。608年隋使裴世清 (はいせいせい) を伴って帰国した。同年裴世清の帰国に際し高向玄理 (たかむこのげんり) ・南淵請安 (みなぶちのしようあん) ・僧旻 (みん) らの留学生・学問僧を伴って再び隋に渡り,翌年帰国した。

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世界大百科事典(旧版)内の小野妹子の言及

【遣隋使】より

…ただし新羅は日本より先にしばしば使者を送っており,外交的にはあまり効果をあげなかったらしいが,この後国内では冠位十二階・十七条憲法の制定など推古朝の主要な改革が行われた。607年(推古15,大業3),小野妹子(いもこ)・鞍作福利(くらつくりのふくり)らをつかわしたことが《日本書紀》にみえ,これと対応する有名な〈日出処の天子書を日没する処の天子に致す〉の国書をたずさえて行き煬帝の不興を買ったことが《隋書》に見える。妹子は翌年隋使裴世清(はいせいせい)らを伴って帰国したが,隋の国書を途中で紛失している。…

【煬帝】より

…また対外的にも積極策に転じ,南では即位早々林邑(りんゆう)(現在のベトナム南部)を攻撃したが,608年には赤土国(スマトラのジャンピあるいはパレンバン付近)が入貢し,610年には朝貢のすすめに応じない流求国(台湾あるいはフィリピン)を侵略している。聖徳太子が607年小野妹子を派遣したのも,こうした煬帝の積極外交と無関係ではない。西方では煬帝みずから吐谷渾(とよくこん)を討って西域交通路を確保,高昌国ほか27国が来貢した。…

※「小野妹子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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