大化改新(読み)たいかのかいしん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「大化改新」の意味・わかりやすい解説

大化改新
たいかのかいしん

645年(大化1)の蘇我(そが)氏本宗の打倒に始まる内政改革。同年6月に中大兄(なかのおおえ)皇子(後の天智(てんじ)天皇)や中臣鎌子(なかとみのかまこ)(後の藤原鎌足(かまたり))らを中核にしたクーデターが成功し、権力を握っていた蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)父子が打倒された。これを乙巳(いっし)の変とよぶが、これを発端にして650年(白雉1)ごろまでの内政改革を大化改新とよんでいる。しかし、『日本書紀』大化2年正月朔(ついたち)条が載せる大化改新詔四か条をはじめ関係する諸記載の信用度、および改新の歴史的意義については、現在、学界での見解が大きく分裂・対立している。その分裂は数多くの問題点にわたっているが、〔1〕640年代なかばごろでの公民制に基礎を置く国家理念の有無、〔2〕いわゆる大化改新詔の信憑(しんぴょう)性、〔3〕その歴史的な位置づけ、という3点に焦点を絞ってみると、大局的に次の四つの見解に集約される。それぞれの見解の内部に、さまざまな論点について、多くの推測が対立していることはいうまでもない。

[野村忠夫]

基本的肯定論

第一の見解は坂本太郎、関晃(せきあきら)らによって代表され、『日本書紀』の編者による細かな年月日の配置や、文章上の修飾は認めながら、『日本書紀』が描く大化改新の経過を基本的に承認する見方である。つまり乙巳の変を端緒にして、646年正月ごろに大化改新詔が発せられたが、詔に載る諸条項は、『漢書(かんじょ)』などによる修飾はあるにせよ、内容的には646年当時のものと推測し、やがて実現されるべき体制の具体的な構想として宣示されたとする。たとえば、国造(くにのみやつこ)を郡司に切り換えることが示されたが、現実には評造(こおりのみやつこ)制が実施され、701年(大宝1)の大宝律令(たいほうりつりょう)で初めて郡司制が達成された。このように諸法令がかならずしもただちに達成されるとは限らないという理解に支えられて、改新の理念・構想は、曲折を経ながら大宝律令に至って完成されたとする。この立場では、大化改新は律令国家体制への出発点として、重要な歴史的位置づけをもつと理解することになる。

[野村忠夫]

改新現詔の内容

『日本書紀』が載せる改新現詔は次の四か条からなる。〔1〕私地・私民を収公して、公地・公民体制とする。そして大臣とそのもとで国政に参与する大夫(まえつきみ)には食封(へひと)を与える。〔2〕中央・地方の行政組織として、京師(みさと)、畿内国司(うちつくにのみこともち)、郡司(こおりのみやつこ)、関塞(せきそこ)(関所)、辺境守備の防人(さきもり)などを置き、京師には坊長(まちのおさ)、坊令(まちのうながし)を置く。また公的な交通機関として駅馬(はいま)・伝馬(つたわりま)を設ける。〔3〕初めて戸籍(へのふみた)、計帳(かずのふみた)、班田収授の法をつくる。また50戸を里(さと)として、里長(さとおさ)を置く。田は360歩を一段、10段を一町とし、田租は段ごとに二束二把とする。〔4〕旧の賦役(えつき)をやめて、田(た)の調(みつぎ)、戸別(へごと)の調(みつぎ)を徴収する。一定の戸ごとに官馬一匹を徴し、兵器を各自に納めさせる。また郡の少領(すけのみやつこ)以上の姉妹・娘から采女(うねめ)を貢上させ、50戸ごとに仕丁(つかえのよぼろ)1人・廝(くりや)1人を貢進させる。この改新詔が発令されたか否か、また発せられたとする場合、その原詔への造作・修飾の度合いへの認定が、諸説を大きく分裂させる一焦点になっている。

[野村忠夫]

基本理念の肯定論

第二の見解は井上光貞(みつさだ)によって代表され、645年6月の乙巳の変とともに、646年正月に素朴な骨子的内容の改新原詔が発令されたと理解する。その原詔は宣命(せんみょう)体で、文章だけではなく、内容的にも後の令文(りょうぶん)を用いた大幅な修飾・造作があると推測するが、その内容には、隋(ずい)・唐的な公民制に基づく国家理念と、現実的な国造を評造に切り換えるという地方制度や、後の律令制とは異なる田(た)の調(みつぎ)・戸の調の画一的な税制などが規定されたとみるのである。そして後の律令体制の構想といえる諸制度の枠組みはみられず、その枠組みは、改新当事者およびその後継者たちが、試行錯誤を繰り返しながら創造していき、701年の大宝律令で完成したとみる。この見解は、640年代なかばころの改新期に、東アジアの情勢に対応すべき体制の弱さを自覚し、これを克服する律令制的な国家理念の存在を肯定するが、改新原詔に律令体制の具体的な枠組みはなく、その成立を672年の壬申(じんしん)の乱前後からに比重を移して理解するのである。この立場での大化改新が歴史上に占める位置づけは、第一の見解に比べて、比重が小さくなるといわねばならない。

[野村忠夫]

改新虚構・否定論

第三の見解は門脇禎二(かどわきていじ)、原秀三郎に代表され、『日本書紀』が描く大化改新が、その編者による造作であり、虚構にすぎないとする改新否定論である。この見解は、乙巳の変による蘇我氏本宗家の打倒は事実であるが、前後にみられる政争的な諸事件、たとえば上宮王家(じょうぐうおうけ)討滅事件、つまり蘇我入鹿による山背大兄(やましろのおおえ)王家の討滅や、有間(ありま)皇子事件などと、本質的に同性格の事件にすぎないと理解する。また改新詔は『日本書紀』の編者が造作したものであり、7世紀なかばころに国際的な国家としての危機感はなく、公民制に基礎を置く律令的な国家理念は存在しなかったとみるのである。つまり歴史上に重要な位置づけをもつ大化改新という事件は存在せず、7世紀初めの推古(すいこ)朝から672年の壬申の乱前後までは、一連の同質的な歩みにすぎなかったとみる。ここで、わが国に律令国家が成立する歩みは、663年における白村江の敗北による朝鮮半島からの全面的撤退を契機に、大陸側からの侵攻という危機感を踏まえて出発する。翌664年2月の甲子(かっし)の宣による一連の内政改革、ことに民部(かきべ)・家部(やかべ)の設定を端緒にして、人民の公民化という方向が生まれ、壬申の乱を経て、675年の部曲(かきべ)の廃止で、律令国家への歩みが本格化した。そして701年の大宝律令によって、律令国家が成立したとするのである。この見解は、640年代なかばに重要な歴史的意義をもつとされた大化改新の存在を否定し、改新は『日本書紀』編者の意図的な造作にすぎないとするのであって、律令国家成立の端緒を664年2月の甲子の宣の時期まで降ろして理解しようとする。

[野村忠夫]

新改新肯定論

第四の見解は石母田正(いしもだしょう)が提示した新しい意味での改新肯定論である。石母田は、改新詔の中核である第1条の内容は、私地・私民の収公や班田収授法の登場とは関係がなく、官司の屯田(みた)や吉備嶋皇祖母(きびのしまのすめみおや)の貸稲(いらしのいね)などの個別的な停廃と、不安定である田(た)の調(みつぎ)を徴収するための校田・民戸の調査と登録という一般的施策の実施であったとする。しかし、改新は、変動する東アジアの情勢が、軍事的にも寄木細工的な構造的欠陥をもつわが国の体制に切実な課題として受け止められ、それに対応した一連の重要な内政改革であったとするのである。つまりカバネナ(姓名)を与えられて、王権に従属・奉仕する諸氏という「たて割り」の族姓的な秩序から、公民的な編戸による律令国家の体制への起点が改新であったとする。この見解は、改新詔第1条の公地・公民制の発令を否定しながら、王民制から公民制への転換点として、大化改新の歴史的意義を大きく評価するという、新しい意味での改新肯定論である。

[野村忠夫]

現段階での一仮説

以上の諸見解を踏まえて、一つの仮説を示そう。644年に唐が大軍を発して高句麗(こうくり)征討に踏み切ったことは、隋から唐への変転を体験して帰国した遣隋留学生・僧らの知見とともに、中臣鎌子らの改革派に王民制がもつ体制の弱さを自覚させた。また643年、蘇我入鹿による上宮王家討滅事件は、反蘇我氏本宗家の気運を高めていたのである。ここで中大兄皇子、中臣鎌子らの改革派は、蘇我氏一族の蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)を加えて、645年6月に蝦夷・入鹿父子の打倒に成功した。ついで翌646年正月、素朴な内容をもつ改新原詔の発令が肯定される。内容的に国造から評造への切り換えや、後の大宝・養老令制とは異なる画一的税制などが推測されるが、この7世紀なかばに律令制的な理念が存在したとみたい。そして改新原詔になかった中央官制は、649年にいちおう整えられ、またこれまでの冠位十二階制は、647年の冠位十三階制を経て、649年の冠位十九階制に発展し、全豪族以下を組織できる冠位制になった。しかし、律令国家への本格的な歩みは、664年の甲子の宣で、広範に残る諸豪族の私民的支配に国家権力による統制を加え、民部・家部として登録させたことに始まる。ついで672年の壬申の乱を経て、675年に部曲(民部)が公民化され、701年の大宝律令で、公民制に基づく律令国家が完成したのである。

[野村忠夫]

『坂本太郎著『大化改新の研究』(1938・至文堂)』『井上光貞著『日本古代国家の研究』(1965・岩波書店)』『門脇禎二著『「大化改新」論――その前史の研究』(1969・徳間書店)』『井上光貞著『大化改新』改訂版(1970・弘文堂書房)』『石母田正著『日本の古代国家』(1971・岩波書店)』『野村忠夫著『研究史・大化改新』増補版(1978・吉川弘文館)』『原秀三郎著『日本古代国家史研究――大化改新論批判』(1980・東京大学出版会)』

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改訂新版 世界大百科事典 「大化改新」の意味・わかりやすい解説

大化改新 (たいかのかいしん)

7世紀半ばの国政改革。狭義では,大化年間(645-650)に試みられた中央集権的諸改革を指すが,広義では,その目標がほぼ達成される大宝律令の制定施行(701)までの約半世紀を含める。

原因を条件と契機とに分ければ,7世紀半ばころには日本でもなんらかの国政改革が試みられるのが必然であった条件として,6世紀末から7世紀前半にかけての中国大陸に隋・唐という中央集権的大統一国家が出現し,周辺諸国,とくに朝鮮半島の国々を圧迫しはじめたという国際環境が挙げられる。まず高句麗は隋・唐の侵略によく抵抗していたが,641年に至って大臣の泉蓋蘇文(せんがいそぶん)が宝蔵王ら反対派を暗殺し,百済ではその翌年に義慈王(ぎじおう)が反対派の貴族らを追放して,それぞれ権力の集中をはからざるをえなかったし,新羅でも647年には当時の女王に対して毗曇(ひどん)ら貴族が反乱を起こしている。日本の朝廷は遣隋使,遣唐使や朝鮮諸国との交渉を通じて国際環境の激動を知っており,帰国した留学生らに教育された青年貴族の間では国政改革が日程に上っていたようである。しかし直接の契機は皇位継承をめぐる朝廷内部の権力闘争であった。すなわち推古天皇の死後,大臣蘇我蝦夷(そがのえみし)は反対派を制圧して舒明天皇を立てたものの,舒明死後には問題が再燃し,しばらく舒明皇后の皇極天皇が立てられている間に,蝦夷の子入鹿(いるか)は643年(皇極2),聖徳太子の子で皇位継承の有力な候補だった山背大兄(やましろのおおえ)王を急襲して自殺させ,朝廷内部の緊張はいちだんと高まった。

舒明と皇極の間に生まれた中大兄(なかのおおえ)皇子(後の天智天皇)は,同志の中臣鎌子(なかとみのかまこ)(後の藤原鎌足)らとはかり,645年6月,宮中で入鹿を暗殺し,自邸に蝦夷を包囲して自殺させると,翌日には皇極の弟の孝徳天皇を立て,じぶんは皇太子として実権を掌握し,阿倍倉梯内麻呂(あべのくらはしのうちのまろ)を左大臣,蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)を右大臣,中臣鎌子を内臣(ないしん),唐に留学した旻(みん)(新漢人(いまきのあやひと)旻)や高向玄理(たかむくのくろまろ)を国博士(くにはかせ)として新政権を樹立,年号を制定して大化とした(乙巳(いつし)の変)。この新しい朝廷は翌7月,唐に抵抗している高句麗には友好関係の維持を,任那の旧領を新羅から奪った百済には任那の調をも要求するなど,朝鮮諸国に対する外交方針を明らかにした。8月にはいると,皇室関係の所領の多い東国(とうごく)(ほぼ東海道,東山道の国々)や直轄領である倭(やまと)(後の大和)の6県(あがた)に使者を送り,土地・人民の調査や武器の収公を命ずるとともに,従来からの管理者である国造(くにのみやつこ)ら地方豪族との対応のしかたを指示した。この使者たちは翌年3月までに朝廷に集められ,指示を守ったか否かによって賞罰を受けたが,これは後に全国の国司が毎年正月に朝廷に集まって行政報告をする朝集使(ちようしゆうし)という制度に定着した。また,使者派遣と同じ日に,朝廷は中国の古典により〈鍾匱(しようき)の制〉を設けて,人民が管理者である伴造(とものみやつこ)や国造ら豪族の裁判に不服なときは朝廷の櫃に上申書を入れさせ,上申書の朝廷での処理が不当なときには鐘を打たせることとした。そして良・賤の区別を明らかにするためには〈男女の法〉を公布して,良民相互,良民と賤民,賤民相互の間に生まれた子をそれぞれ父母のどちらにつけるかを定めた。さらに僧尼統制のために〈十師〉という10人の代表者を僧の中から任命する一方では,俗人から任命した寺司らに各寺の所有する奴婢や土地を調査させるなど,新政を推進して,その年末には都を海外との交渉に便利な難波に移した。

 翌646年1月1日,朝廷は4項目の〈改新之詔〉を公布した。それはおおむね,(1)土地・人民は公有とする。すなわち皇族らの子代(こしろ)・屯倉(みやけ)や貴族,豪族らの部曲(かきべ)・田荘(たどころ)のような私地・私民はすべて収公し,かわりに皇族,貴族,豪族には官人としての給与を与える。(2)中央・地方の行政制度を整える。すなわち中央では畿内の範囲を定め,京を坊,地方では国を郡(評と表記),郡を里に分け,坊や郡や里には在地の有力者を官人に任命し,要地には関塞(せきそこ),斥候(うかみ),防人(さきもり)を配置し,中央と地方は駅伝制で連絡し,駅馬の利用や関塞の通過のためには駅鈴や木契を貸与する。(3)全国の土地・人民を登録して,耕地を人民に公平に割り当てる班田収授の法を作る。すなわち人民は戸籍に登録して50戸を1里とし,耕地の面積は町・段・歩で表記して1町の田租を22束とする。(4)全国の租税を統一する。すなわち耕地面積に応ずる田調,戸別の戸調のほかに,官馬の代価や兵士の装備や仕丁(しちよう)・采女(うねめ)の経費も戸別に割り当てる,という内容であった。

 この〈改新之詔〉は国政改革の方向を宣言したものとみられるが,同年3月には皇太子中大兄が率先して入部(いりべ)(子代からの仕丁か)524人,屯倉181所を奉還し,また同月,貴族・豪族らのために〈薄葬の詔〉が出,伴造や国造らのもとに地域共同体的な生活を営んでいた人民を国家の公民とするために〈風俗改正の詔〉も出された。同年8月には班田収授の法の採用が再度強調され,田調・戸調は後の律令制のような〈男身の調〉に改められ,翌647年には従来の冠位十二階を十三階とし,さらに649年には十九階として,国博士の立案した〈八省百官〉に官人を配置した。また北方の蝦夷地に対しては647年に渟足柵(ぬたりのさく),648年に磐舟柵(いわふねのさく)を設置するなど,支配の強化に努めた。朝廷内部にはこのような急激な改革に反発する気分も生じたらしく,649年左大臣の阿倍倉梯麻呂が死ぬと,右大臣の石川麻呂に謀反の疑いがかけられ,一族もろとも飛鳥の山田寺で自殺させられるという事件も起きたが,650年(白雉1)に穴戸(後の長門)で白い雉(きじ)が発見されたのを機会に,朝廷はこれを過去5年間の政治に対する天の賞賛と解釈して盛大な祝典を催し,以後においては特記すべき新政策がみられなくなる。

以上はおおよそ《日本書紀》の記述に即した,狭義の大化改新の経過であるが,明治維新以来,この大化改新は王政復古の先駆として,また天皇制中央集権国家の出発点として,高く評価されてきた。しかし第2次大戦前すでに津田左右吉は,その《日本書紀》批判の一環として,〈改新之詔〉にも後の近江令による修飾が加えられているのではないかと疑っており,戦後は木簡(もつかん)のような新出の史料によって,〈改新之詔〉の中の〈郡〉の字が〈評〉の字の修飾であることが明らかになるなど(郡評論争),《日本書紀》批判がさらに進展し,近年では大化改新そのものも《日本書紀》編者による虚構とまで主張する見解が出てきた。だが《日本書紀》はもともと原史料をそのまま編集したものではなく,完成当時(720)の人々に理解しやすいように当時現行の制度によって大幅に修飾されている歴史書であるにしても,まったくの創作ではない。大化改新のような7世紀半ばの国政改革も,そのころの国際環境を考慮すれば十分起こりうることであり,《日本書紀》の記述も修飾を注意深く除去してゆけば,おおよそのところは事実とみてよいようである。ただ最もたいせつなのは,〈改新之詔〉が示しているような中央集権のための諸制度の実現はけっして容易ではなかったことを理解しておくことである。すなわち公地公民の政策の基本である土地・人民の調査は全国的には困難であり,全国の戸籍は670年(天智9)に庚午年籍(こうごねんじやく)として初めて完成したし,6年ごとの定期的な造籍が確認されるのは690年(持統4)の庚寅年籍(こういんねんじやく)以後である。戸籍を前提とする定期的な班田収授法の実施も,したがってそれ以後のこととなる。またおおまかな戸調・田調を精密な男身つまり人別の調に変えてゆくにも戸籍は必要であり,概して大宝律令に規定されたような中央集権的律令国家の諸制度が急速に実現されてゆくのは,壬申の乱(672)によって天皇の権威がいちじるしく高まった天武・持統朝(672-697)においてであろうとみられている。
飛鳥時代
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百科事典マイペディア 「大化改新」の意味・わかりやすい解説

大化改新【たいかのかいしん】

645年夏,中大兄(なかのおおえ)皇子(天智天皇)を中心に中臣(なかとみ)(藤原)鎌足(かまたり)ら革新的な豪族が蘇我大臣(おおおみ)家を滅ぼして開始した古代政治史上の大改革。大化年間(645年−650年)の中央集権的諸改革をさすが,広義には701年の大宝(たいほう)律令制定までを含む。年号を創始して大化元年とし,皇極(こうぎょく)天皇に代えて孝徳天皇を立て,都を飛鳥(あすか)から難波(なにわ)宮に移し,翌春,私有地・私有民の公地公民化,国・・里制による地方行政権の朝廷集中,戸籍作製と班田収授の開始,田之調(たのちょう)・戸別之調以下の税制改革など,4綱目からなる改新之詔(かいしんのしょう)を公布,以後政治改革に努め,古代東アジア的な中央集権国家成立の出発点となった。しかし改新之詔の諸制度がほぼ実現したのは,672年の壬申(じんしん)の乱以後の天武・持統朝であった。→班田収授法蘇我氏遣隋使遣唐使乙巳の変
→関連項目飛鳥時代新漢人旻大臣門脇禎二国博士元号皇極天皇公地公民孝徳天皇国司国造本紀氏姓制度蘇我石川麻呂蘇我入鹿蘇我蝦夷高向玄理日本博士流行神封戸藤原氏藤原鎌足八色の姓律令国家律令時代

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大化改新」の意味・わかりやすい解説

大化改新
たいかのかいしん

皇極4(645)年6月12~13日に中大兄皇子(天智天皇),中臣鎌足(藤原鎌足)らが蘇我入鹿蘇我蝦夷を倒して権力を握ったクーデター(乙巳の変),およびそれに続いて行なわれた政治上の大改革。翌 6月14日には孝徳天皇が即位し,阿倍内麻呂蘇我倉山田石川麻呂が左右大臣に,中臣鎌足が内臣(うちつおみ)に,僧高向玄理国博士に任ぜられ,中大兄皇子が皇太子として実権を握った。6月19日初の元号「大化」が定められ,12月には難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや。→難波京)に遷都。翌大化2(646)年改新の詔が出され,後年まとめられた『日本書紀』よると,私地私民の廃止,地方行政組織の整備,戸籍・計帳の作成と班田収授の実施,租・庸・調の導入という 4ヵ条の大綱が示されるなど,中国を模した中央集権的官僚支配体制の基礎が築かれた。

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世界大百科事典(旧版)内の大化改新の言及

【飛鳥時代】より

…この間,孝徳朝に難波宮,天智朝に近江大津宮へ短期間都が移った以外,推古朝の豊浦宮・小墾田宮(おはりだのみや),舒明朝の飛鳥岡本宮・田中宮,皇極朝の飛鳥板蓋(いたぶき)宮,斉明朝の飛鳥川原宮・後飛鳥岡本宮,天武朝の飛鳥浄御原(きよみはら)宮と宮室は集中的に飛鳥の地に営まれ,つぎの持統・文武朝の藤原京も新益京(しんやくのみやこ)とよばれるように,飛鳥中心の倭京(わきよう)を拡張したものであった。
[時期区分]
 645年(大化1)の蘇我氏滅亡,大化改新までを前期,以後を後期とする。ただし後期を壬申の乱以前と,天武朝以後にさらに区分し,またもし前期に6世紀中ごろの宣化・欽明朝までを含めるならば,やはり前期も推古朝以前と以後に区分するのが適当であろう。…

【乙巳の変】より

…この政変では中大兄の勇気と鎌子の知謀とが人々の印象に残って〈乙巳の変〉という物語となり,《日本書紀》や《大織冠伝(たいしよくかんでん)》に記録されるにいたった。新政権樹立後の一連の政治改革まで含めて〈大化改新〉とよぶのは近代にはいってからである。大化改新【青木 和夫】。…

※「大化改新」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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