新田原古墳群(読み)にゆうたばるこふんぐん

日本歴史地名大系 「新田原古墳群」の解説

新田原古墳群
にゆうたばるこふんぐん

[現在地名]新富町新田

標高約七〇メートルの洪積台地(新田原台地)を中心に分布し、一ッ瀬川を挟み西都市の西都原さいとばる古墳群と対峙する。前方後円墳二五基・方墳二基・円墳一八〇基の計二〇七基を数え、宮崎県内第二の大古墳群。国指定史跡広域に分布する当古墳群は地形と古墳の分布から祇園原ぎおんばる支群・やまぼう支群・塚原つかばる支群・石船いしふね支群の四群に分けられる。山ノ坊支群では大正年間の古墳開削により画文帯神獣鏡一面・獣文縁獣帯鏡二面が出土している。また祇園原支群の五二号墳(前方後円墳)からは第二次世界大戦中の防空施設設営時に金銅製柄頭が出土している。近年の調査により祇園原支群では削平された円墳周溝が三六基検出され、当古墳群の古墳分布に新たな資料を付加えることとなった。以下各支群ごとに概略を記す。

〔園原支群〕

最も多くの古墳が密集し、十数基の前方後円墳を抱える。四八号墳(弥吾郎塚)は当古墳群中最大の前方後円墳で、全長九五メートル、盾形の周堀と周庭帯をもつ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「新田原古墳群」の解説

にゅうたばるこふんぐん【新田原古墳群】


宮崎県児湯(こゆ)郡新富町新田、西都(さいと)市右松にある古墳群。古墳時代後期では南九州最大の前方後円墳である全長94mの弥五郎(やごろう)塚古墳以下、一ツ瀬川の左岸西都原(さいとばる)と向かい合う広大な新田原台地の縁辺から中部にかけて点在する古墳の総称。前方後円墳24基、方墳2基、円墳181基の総数207基で構成。古墳は4つの地域に集中しているため、それぞれ塚原(つかばる)古墳群、石船(いしふね)古墳群、山之坊(やまのぼう)古墳群、祇園原(ぎおんばる)古墳群と呼ばれている。古墳が最も集中分布している祇園原古墳群には前方後円墳14基、方墳1基、円墳139基の合計154基の古墳があり、築造は6世紀(古墳時代後期)と考えられ、そのうちの一つ、百足塚(むかでづか)古墳(前方後円墳)と呼ばれる全長80mの58号墳周辺では、約1000体の円筒埴輪(はにわ)のほか、人物、鳥形、家形、柵形などの形象埴輪が約60基発見された。とくに「ひざまずく男性」などの他の古墳では見られない埴輪も出土し、1944年(昭和19)に国の史跡に指定された。JR日豊本線日向新富駅から車で約15分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

世界大百科事典(旧版)内の新田原古墳群の言及

【新富[町]】より

…耕地が広く,畜産や野菜の促成栽培を中心に農業が行われ,北西部の洪積台地は畑地帯,南東部の一ッ瀬川沿いは水田地帯になっている。北西部の台地一帯には200基の古墳からなる新田原(にゆうたばる)(東都原)古墳群(史)があり,その東に航空自衛隊新田原基地もある。新田の湯ノ宮には梅の名木〈座論梅〉(天)がある。…

【新田原】より

…藩政時代に佐土原藩の馬牧場があった地で,昭和初期は桑園,現在は航空自衛隊の基地がある。台地上には約200基に及ぶ新田原古墳群(史)がある。【下村 数馬】。…

※「新田原古墳群」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」