デジタル大辞泉
「西都原古墳群」の意味・読み・例文・類語
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さいとばる‐こふんぐん【西都原古墳群】
- 宮崎県西都市の西都原台地にある各種墳形を含む総数三二九基の古墳群。五~六世紀頃に営造された。昭和二七年(一九五二)国特別史跡に指定。西都原風土記の丘。
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西都原古墳群
さいとばるこふんぐん
[現在地名]西都市三宅
三宅の北部、一ッ瀬川の中流域右岸に形成された西都市街地の西方、標高六〇―八〇メートルの洪積台地(通称西都原台地)上に分布する。三〇〇基を超す古墳が集中する宮崎県を代表する大古墳群で、昭和二七年(一九五二)にはこのうち前方後円墳三〇基・方墳一基・円墳二七八基が国の特別史跡に指定された。現在、中心部は西都原風土記の丘史跡公園として整備されている。台地中央部には陵墓参考地に治定される男狭穂塚・女狭穂塚の両古墳が威容を誇る。
〔戦前の発掘調査〕
大正元年(一九一二)から六年にかけて、三〇基の古墳について発掘調査が行われた。この調査は皇祖発祥の地としての日向国を顕彰する意味から宮崎県が主催し、東京・京都の両帝国大学、宮内庁・帝室博物館などから浜田耕作・黒板勝美・柴田常恵・梅原末治らを招聘して調査団を結成、これは日本における最初の本格的学術発掘といわれている。調査の結果一三号墳から粘土槨が検出され、製三角縁神獣鏡が出土。また男狭穂塚・女狭穂塚の両古墳の陪冢と考えられる一六九号墳・一七〇号墳からは、鉄製甲冑や刀剣類とともに多くの埴輪片が出土した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
さいとばるこふんぐん【西都原古墳群】
宮崎県西都市三宅にある5~7世紀ごろの古墳群。一ツ瀬川右岸に広がる古墳群は、日本最大級で300基を超え、墳丘を備えた古墳311基が現存する。その内訳は前方後円墳31基、方墳1基、円墳279基。ほかに横穴墓が10基、南九州特有の地下式横穴墓が12基確認されている。西都原古墳群は地形的に西都原台地上と、西都原台地と市街地との間に位置する中間台地上の2地域に区分され、さらに11の集団に分かれている。おもな古墳には男狭穂塚(おさほづか)・女狭穂塚(めさほづか)、姫塚、鬼の窟(おにのいわや)古墳などがある。男狭穂塚は、2重の周濠をめぐらし、全長約175m、後円部径約132m、後円部高さ約18mという日本最大の帆立貝形古墳。ニニギノミコトの陵墓として宮内庁陵墓参考地となっており、被葬者の埋葬施設は、未調査、未発掘である。女狭穂塚は、全長約180m、後円部径約96m、後円部高さ15mで周濠をもつ、九州地方最大の前方後円墳である。コノハナノサクヤビメの陵墓として宮内庁陵墓参考地となっており、被葬者の埋葬施設はまだ発掘調査がなされていないが、男狭穂塚・女狭穂塚ともに5世紀前半中頃の築造とされる。姫塚は姿の美しさからそう呼ばれる前方後円墳で、墳長50.2m、前方部幅30.8m、前方部高さ5.25m、後円部径28.4m、後円部高さ6m。周囲には周濠がめぐらされている。大正時代に発掘され、直刀3本、刀子(とうす)1本、須恵器(すえき)9個、ガラス製小玉、水晶製切り子玉などが出土し、築造年代は6世紀初頭(古墳時代後期)とされている。鬼が一夜で造りあげたという伝説をもつ鬼の窟古墳は、西都原古墳群のなかで唯一の横穴式石室をもつ直径36.4m、高さ7mの円墳。築造は6世紀末~7世紀初めと考えられている。石室内の水を排出する暗渠(あんきょ)の存在や土塁(外堤)が完全に古墳を一周していること、追葬が行われていたことなどが明らかとなっている。周囲に土塁をめぐらす古墳は、中国・朝鮮半島ではよくみられるが、国内では石舞台古墳にみられるだけで関係が注目される。1934年(昭和9)に国の史跡に指定され、1952年(昭和27)に特別史跡になり、数度の追加指定があった。西都原古墳群には数多くの出土品があるが、国宝に指定された金銅馬具類、重要文化財の埴輪(はにわ)子持家、埴輪舟などが有名。一帯は特別史跡公園西都原古墳群として整備され、西都原考古博物館、古代体験館などがある。JR日豊本線佐土原駅から車で約42分。
出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報
西都原古墳群 (さいとばるこふんぐん)
宮崎県西都市にある古墳群。九州山地から派生する洪積台地のうえに,約330基が群在する。宮崎県知事有吉忠一が宮内省の許可のもとに調査を計画し,1912年から6年間,黒板勝美,浜田耕作らによる合同調査が行われた。その発掘古墳数は30基にのぼる。古墳群は主として前方後円墳および円墳からなり,方墳や地下式横穴も若干確認されている。前方後円墳は32基を数え,このうち全長219m,後円部径128mの男(雄)狭穂塚(おさほづか),全長174m,後円部径97m,前方部幅106mの女(雌)狭穂塚(めさほづか)は,九州では卓越した規模を誇る。前方後円墳の場合,その形態は一様でなく,占地の傾向も形態ごとに相違する。すなわち,細長い前方部をそなえた柄鏡形のものは一ッ瀬川を見下ろす台地東縁部を占めるのに対し,前方部の発達した女狭穂塚などは台地中央部から西縁部にあり,前方部がさらに発達して後円部の高さをしのぐものは台地下の沖積平野にある。埴輪を有する古墳はきわめて少なく,女狭穂塚およびその周辺の数基に限られる。なかでも169号墳出土の子持家形埴輪や舟形埴輪(いずれも重要文化財。東京国立博物館)は著名である。なお唯一の横穴式石室墳として,円墳の鬼窟屋(おにのいわや)古墳がある。当古墳群は5世紀および6世紀の大古墳群として,1952年特別史跡に,また69年特別史跡公園〈風土記の丘〉第1号に指定された。
執筆者:川西 宏幸
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西都原古墳群
さいとばるこふんぐん
宮崎県西都(さいと)市にある古墳群。東西2.6キロメートル、南北4.2キロメートルにわたる平坦(へいたん)な台地上に大小329基の古墳が群在する。このうち前方後円墳32基、方墳1基、ほかはすべて円墳である。1912年(大正1)から17年にかけて、時の宮崎県知事有吉忠一の提唱で、同県が主体となり、京大、東大、宮内省の諸学者により26基の古墳の発掘調査が行われた。皇祖発祥の地であることを立証するという目的は達せられなかったが、古墳の学術調査史上に一時期を画す大規模な調査であった。前方後円墳の規模としては全長35~90メートルのものが多く、外形は柄鏡(えかがみ)式、内部主体は粘土槨(ねんどかく)が多いが横穴式石室もあって、4世紀後半から6世紀にかけて営造されたものと推定される。出土遺物として著名なものに169号墳(円墳)出土の舟型埴輪(はにわ)、子持家型埴輪がある。群中とくに大きいのは陵墓参考地に指定されている男狭穂塚(おさほづか)(全長219メートル)と女狭穂塚(めさほづか)(179メートル)であり、この2基を除いて1952年(昭和27)特別史跡に指定され、現在は「西都原風土記(ふどき)の丘」として整備されている。
[久保哲三]
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「西都原古墳群」の意味・わかりやすい解説
西都原古墳群【さいとばるこふんぐん】
宮崎県西都市の洪積台地上にある古墳群(特別史跡)。〈風土記の丘〉と呼ばれる洪積台地上に前方後円墳,方墳,円墳など約330基の古墳が並ぶ。全長200m前後の男狭穂(おさほ)塚,女狭穂(めさほ)塚の両前方後円墳を除けば,総じて全長100m以下の小さなもの。横穴式石室をもつものもあり,5―6世紀に長期間にわたって成立したと考えられる。
→関連項目西都[市]
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西都原古墳群
さいとばるこふんぐん
宮崎県西都市の西都原台地上にある古墳前~後期の大古墳群。311基からなる。1912~17年(大正元~6)に宮崎県が主催し,東大・京大・宮内省・帝室博物館が30基を発掘。日本の近代的な古墳研究の第一歩として学史的にも重要な古墳群。前方後円墳32基,方墳1基,円墳278基のほか,地下式横穴墓10基,横穴墓12基がある。古墳の大部分は台地縁辺に並ぶが,台地内部に相接して古墳中期の男狭穂(おさほ)塚と女狭穂(めさほ)塚がある(ともに陵墓参考地)。男狭穂塚は円丘部径132m,全長148mの造出しつき円墳。女狭穂塚は墳長176mの前方後円墳で,九州最大の規模。直径37mの鬼の窟(おにのいわや)古墳は外堤と二重の周堀をめぐらす円墳で,唯一の横穴式石室をもつ。国特別史跡。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
西都原古墳群
さいとばるこふんぐん
宮崎県西都市にある古墳群。東西約 2.5km,南北約 4kmにわたる洪積台地に大小約 330基の古墳が群集している。前方後円墳 32基,方墳1基,その他は円墳である。前方後円墳の男狭穂塚 (おさほづか) ,女狭穂塚 (めさほづか) はそれぞれ2重の隍 (からぼり) をめぐらし,前者は長さ約 220m,後者は約 175mある。 1912年に最初の大規模な学術調査が行われた。竪穴式石室が1基あるが,全体として5~6世紀頃に形成されたものであろうといわれる。
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西都原古墳群
さいとばるこふんぐん
宮崎県西都市にある古墳群
大小330基の古墳が群集し,円墳・方墳・前方後円墳がある。前方後円墳の中には全長219m,後円部径128mにも及ぶ壮大なものもあるが,全長30〜90mほどのものが多い。大部分は5〜6世紀ごろの築造と考えられる。
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報