新館村(読み)にいだてむら

日本歴史地名大系 「新館村」の解説

新館村
にいだてむら

[現在地名]会津坂下町新館

東を旧みや(鶴沼川)が北流し、南の坂下村との間を越後街道が通る。北は見留みとめ村、西は塔寺とうでら村。西から北を栗村くりむら堰が流れる。永延二年(九八八)越後の城四郎重則が築いた会津八館の一つ田中たなか館跡がある(会津鑑)。かつての村は北東二町余にあってにい町と称したが、水害のため館跡に移ったので新館村と称したという(新編会津風土記)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高四七九石余で、「此内二百十三石六斗川ヲシ荒」と注記される。青津組に属し、文化一五年(一八一八)の村日記では高五七九石余。


新館村
にいだてむら

[現在地名]平賀町新館

矢捨やすて山から延びる低い舌状台地の北を広船ひろふね川、南を唐竹からだけ川が流れ、広船川の平野部への出口町井まちい村、唐竹川の平野部への出口に沖館おきだて村があり、両村のほぼ中間に新館村がある。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の平賀郡に高一三五・二六石とあり、うち田方一一八・四一石とある。天和四年(一六八四)家数二五(竹館村誌)。貞享四年(一六八七)検地帳に村高五一〇・三八二石、うち田方四五町四反一歩、四一五・三七五石、畑方二四町三反二畝一三歩、九五・〇〇七石とあり、池床は六ヵ所で三町二反、漆木二〇一本、留山一、ただし雑木、藪一町六反、村中抱えの釈迦堂三畝二歩とある。


新館村
にいたてむら

[現在地名]船引町新館

大倉おおくら村の北東、うつしヶ岳北西麓の丘陵に立地。移川流域に低地が開ける。相馬へ至る道が通り、村の中央で川俣かわまた(現川俣町)へ至る道が北西へ分岐する。永禄一一年(一五六八)七月吉日の熊野山新宮年貢帳(青山文書)にみえる「まかりやま」「あかぬま」は当地に比定され、それぞれ三〇〇文と七〇〇文の年貢を紀州熊野新宮に納めている。


新館村
しんたてむら

[現在地名]比内町新館

大館盆地の南部、さい川の流域に位置する。戦国期の館が地名の由来で、同期の当地方の支配者であった浅利氏の本・支城が存立する独鈷とつこ扇田おうぎだを結ぶ街道沿いにあたる。真館しんたて館下たてした城下しろした屋鋪やしき八幡下はちまんした駒橋屋敷こまばしやしきなどの小字が現存。

天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に「上新立村 下新立村」とその名がみえる。上新立・下新立はおそらく江戸期の新館・真館二村であろう。慶長二年(一五九七)の戸数は六(「浅利頼平領内村数覚書」秋田家文書)。同六年当村内三六石四斗は秋田実季の蔵入地に指定される(「秋田実季侍分限」秋田家文書)


新館村
しんだてむら

[現在地名]中条町新館

南を中条築地なかじようついじ往来が通り、東は柴橋しばはし村、西は築地村、北は鷹巣たかのす村に接する。慶長三年(一五九八)の村上頼勝知行宛行状(近藤卓穂氏蔵)に「中条組新館村」とみえ、二石九斗四升が寺本与一郎に宛行われている。元和五年(一六一九)の堀直寄知行宛行目録(新潟大学蔵)では堀主膳に、同九年の同目録(同大学蔵)では堀伝左衛門らに宛行われており、高はいずれも四九九石六斗二升三合とある。


新館村
にいだてむら

[現在地名]上北町新館

七戸しちのへ川と川去かわさり川の間に位置し、東は七戸村(現七戸町)、東北は大浦おおうら村、南は大沢田おおさわだ(現十和田市)、北は天間館てんまだて(現天間林村)に接する。

正保四年(一六四七)の南部領内総絵図に新館村、一八五石余とあり、同年の郷村帳によれば一八一・八九四石のうち一六〇・八七一石が田である。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」に高一四二・一石余、郡分郷村高書上一一八・六石余とあり、ともに蔵分であろう。ほかに「七十四石八斗余同五十二石八斗余、十石八幡別当尭淋院 給地」とある。馬四八疋を飼養。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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