七戸村(読み)しちのへむら

日本歴史地名大系 「七戸村」の解説

七戸村
しちのへむら

[現在地名]七戸町 七戸・まちなど

八甲田はつこうだ連山八幡はちまん岳の東、七戸川上流と、その支流大林おおばやし川・道地どうじ川・和田わだ川・作田さくた川・倉岡くらおか川の流域に位置する。北は天間館てんまだて(現天間林村)、東は新館にいだて(現上北町)、南は三本木さんぼんぎ(現十和田市)に接する。

建武元年(一三三四)の北畠顕家国宣(遠野南部文書)に「糠部郡七戸内工藤右近将監跡」とみえるが、ここにいう七戸は後の七戸村を中心とする広域地名である。七戸城には建武中興まで工藤氏が居館し、それ以後は根城南部氏の支配下に置かれて、(現八戸市)とともに南朝勢力の拠点となった。根城南部氏八代政光は晩年に家督を兄信光の子長経に譲ると、七戸城に隠退し、七戸氏の祖になったといわれる(「八戸家伝記」南部家文書)。七戸氏の系譜については諸説あって一定しないが、以後七戸は代々七戸氏によって治められることとなった。

天正一九年(一五九一)九戸の乱に際して七戸家国は九戸政実と結んで滅ぼされ、七戸家は断絶した。翌二〇年の諸城破却書上では七戸城は破却分とされているが、実際に破却されたか否かは明らかでない。のち七戸城には南直勝が起用されて第二の七戸氏となり、以後直時・重政と続いた(岩手県史)。七戸氏は七戸城廻り二千三〇〇石を領知した大身である。寛文四年(一六六四)三代藩主南部重直が死去すると重政は四代藩主に抜擢され、南部大膳大夫重信と改めた。七戸氏領は藩の直轄となり、翌五年には七戸城内に代官所が設置された。元禄四年(一六九一)七戸代官から野辺地代官が分立し、翌五年七戸氏の家臣五五人が七戸給人となった(郷村古実見聞記)。七戸代官は七戸通の七戸村以下二四ヵ村を所管し、後世まで三戸代官と並んで重要視された。

正保四年(一六四七)南部領内総絵図に七戸村、三四一石余とあり、同年の郷村帳によれば三四一・六五石のうち二四八・六九四石が田である。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」には高八五五・七石余、郡分郷村高書上として六四〇・一石余、五九一・四石余とあり、いずれも蔵分であろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報