日永村(読み)ひながむら

日本歴史地名大系 「日永村」の解説

日永村
ひながむら

[現在地名]四日市市日永一―五丁目・日永西ひながにし一―五丁目・日永東ひながひがし一―三丁目・日永・寿ことぶき町・とまり町・追分おいわけ一―三丁目・前田まえだ町・小古曾おごそ一丁目・泊小柳とまりこやなぎ町・東日野ひがしひの一丁目・泊山崎とまりやまざき町・海山道みやまど町・雨池あまいけ町・大井おおいかわ

六呂見ろくろみ村の西にあり、北は鹿化かばけ川を境として赤堀あかほり村と接する。西方には泊山とまりやま丘陵、村の中央を天泊てんぱく川が東流し、下流で鹿化川と合流して伊勢湾に注ぐ。東海道が村域を南北に貫き、集落南端、神戸藩領域にある字追分で伊勢参宮街道が分れて南下する。なお「能因歌枕」に載る伊勢の名所に「日永の浜」がある。

承徳三年(一〇九九)七月の民有年解案(書陵部蔵壬生家文書)に「有年名主所領村主寛丸名田之内、良田郷四条十三日長里廿五坪一段」と出る。保延元年(一一三五)一〇月日の寛御厨検田馬上帳(同文書)にも「十三日長里廿三坪一反小、(朱筆)包道才六十ト廿五ー一反」とある。また鎌倉期と思われる吉川御薗条里注文(光明寺古文書)には、「四条十二 日長里、十三 日長里」とみえ、これらにより古代律令制下において、この地に条里制のしかれていたことが知られる。前記の史料によれば、平安末期には神宮ゆたけ御厨に含まれていた。

吾妻鏡」元久元年(一二〇四)五月六日条に、三日平氏の乱鎮圧に向かった平賀朝雅よりの報として「凡張本若菜五郎城構処□□□(所、所)謂、伊勢国日永・若松・南村・高角・関・小野(下略)」と出る。伊勢平氏の拠点の一つであったのであろう。「神鳳鈔」に「日長新御薗」とあるように、伊勢神宮領が存在した。


日永村
ひながむら

[現在地名]美山町日永

東の相戸あいど村・出戸でと村、南の徳永とくなが村に囲まれた南北に細長い山村。かつては日屋ひや村といったが、いつの頃からか「日屋は唱あしきとて日永村と改め」たといわれ(濃州徇行記)慶長郷帳のうち小物成之覚に「ひや村」とあるが、本体の郷帳では佐野さの四ヶ村のうちに含まれる。元和五年(一六一九)の尾張藩美濃国之内郷帳(徳川林政史研究所蔵)の小物成帳には火屋村とある。正保郷帳にも佐野四ヶ村としてまとめられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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