日本歴史地名大系 「日永村」の解説
日永村
ひながむら
承徳三年(一〇九九)七月の民有年解案(書陵部蔵壬生家文書)に「有年名主所領村主寛丸名田之内、良田郷四条十三日長里廿五坪一段」と出る。保延元年(一一三五)一〇月日の寛御厨検田馬上帳(同文書)にも「十三日長里廿三坪一反小、(朱筆)包道才六十ト廿五ー一反」とある。また鎌倉期と思われる吉川御薗条里注文(光明寺古文書)には、「四条十二 日長里、十三 日長里」とみえ、これらにより古代律令制下において、この地に条里制のしかれていたことが知られる。前記の史料によれば、平安末期には神宮領
「吾妻鏡」元久元年(一二〇四)五月六日条に、三日平氏の乱鎮圧に向かった平賀朝雅よりの報として「凡張本若菜五郎城構処
日永村
ひながむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報