日本歴史地名大系 「日畑村」の解説 日畑村ひばたむら 岡山県:倉敷市旧都窪郡地区日畑村[現在地名]倉敷市日畑・庄新町(しようしんまち)、岡山市納所(のうそ)矢部(やべ)村・西尾(にしお)村の東に位置。南は中撫川(なかなつかわ)村(現岡山市)と接し、足守(あしもり)川の両岸に村を形成。伝承によると、吉備津彦命が温羅(うら)征伐に西下したとき、当地に本拠をもつ片岡多計留が紅旗を上げて先陣をつとめ殊勲をたてた。この旗が火の飛ぶのに似ていたので火旗というようになり、のち日幡(ひばた)、日畑へと変わったという(「村社略記」堀文書)。室町中頃と推定される二月一九日の福光領家百姓中油無沙汰注文(吉備津神社文書)に「二反 日幡 難波四郎左衛門方」とあり、天正四年(一五七六)の吉備津神社の社家配当注文には「ひはたの」「日幡」「日幡村」がみえる。 日畑村ひばたむら 兵庫県:養父郡八鹿町日畑村[現在地名]八鹿町日畑石原(いしはら)村の西、小佐(おさ)川支流の最上流域山間に位置し、西は妙見(みようけん)山(一一三九メートル)の稜線を境に七美(しつみ)郡作山(つくりやま)村(現村岡町)。火畑・火畠とも書いた。集落は支流左岸の谷沿いにある日畑、日畑の南の山腹にある加瀬尾(かせお)、日畑の西、石原村妙見社(現名草神社)の門前として発達した妙見の三つに分れていたが、妙見は現在廃村となっている。江戸時代には初め幕府領(寛永一六年知高帳など)、慶安元年(一六四八)に妙見社領となり、同社領として幕末に至った(文化年間「但馬国領地絵図」出石神社蔵、「養父郡誌」など)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報