納所村(読み)のうそむら

日本歴史地名大系 「納所村」の解説

納所村
のうそむら

[現在地名]多久市東多久町ひがしたくまち納所

古賀こが宿から皆木みなきを経て松瀬まつぜ村を過ぎると道は右手へ大きく湾曲し、両子ふたご岳・岳の東麓を通って裏納所うらのうそ村・砥川谷とがわたに(現小城郡牛津町)へと続いている。この湾曲した道に沿って形成された集落が納所村である。後背には急峻な両子山がそびえ、前面には牛津川まで水田が続く。川の東方には小城おぎ藩領牛尾うしのお山の小丘陵がある。

両子山はこの付近では南側にいちばん突き出た山系であり、加えて、その高さも群を抜いており、山頂に登れば、東に牛尾丘陵を眼下に佐賀平野が広がり、はるかに筑後山脈や、南に有明海を隔てて大牟田おおむた(現福岡県大牟田市)辺りまで眺望することができる。南から西にかけては杵島きしま山・多良たら山系・武雄地方の山々が眺望できる。「肥前風土記」の小城郡に「烽 壱所」とあるが、その位置については両子山をとる説が強い。また同書杵島郡の「嬢子山おみなやま郡東北」について、女山おんなやまふな山を比定する説が強いが、位置関係から両子山雌岳(おんな岳)を比定する説もある。

納所村
のうそむら

[現在地名]三原市沼田東ぬたひがし町納所

本市ほんいち村の西にあり、北は沼田川を隔てて本郷ほんごう(現豊田郡本郷町)荻路おぎろ村。南と西は丘陵性の山地で、沼田川沿いの東部に湖海こうみという沼がある。低地部は中世から近世初期の干拓地で、水損を受けることが多かった。

古代は「和名抄」に載る沼田郡安直あちか郷のうち。安直郷は中世には沼田庄に含まれ、小早川遠平が勲功の賞として源頼朝から宛行われたなかに同郷地頭職・公文職があり、景平を経て茂平に譲られた(沼田小早川系図)。安直郷のうち納所・小原おばら松江まつえ惣定そうじよう一帯をとくに安直本郷あじかほんごうといった。嘉禎元年(一二三五)小早川茂平が当地に巨真山きよしんざん(現米山寺)を建立。

納所村
のうそむら

[現在地名]津市納所町

蛇行する安濃あのう川下流が南へ突出した内懐の堤防沿いにあり、上流西方に北河路きたこうじ村、西の対岸が神納かのう村である。集落北方の水田には県内弥生時代の代表的な納所遺跡がある。村名は神宮領の納米所であったことによるとするのが定説である。元徳元年(一三二九)の安東郡専当沙汰文に記す神宮神田は、当村とその周辺のものが多く、「鳥加部」は現在の鳥壁とりかべであろうし、「深見」「亀森」「横井」「松本」はいずれも現在の小字名にあり、神田耕作者「丁部」四〇名のなかに「鶴三郎納所住人」「納所全次郎」など納所の地名を冠する者一一名が一五ヵ所の作人となっている。

納所村
のうそむら

[現在地名]伏見区納所〈和泉屋いずみや大野おおの岸下きしのした北城堀きたしろぼり下野しもの外島とじま中河原なかがわら星柳ほしやなぎ南城堀みなみしろぼり妙徳寺みようとくじ薬師堂やくしどう

東北は横大路よこおおじ村、西北は桂川を介して樋爪ひづめ村・水垂みずたれ村、南は宇治川を介して淀城下町と接する。村の境域内に淀城下六ヵ町の一つ納所町を包みこむ(→淀城下

享保一四年(一七二九)の村高は、四五八・六七〇六石で、そのうち三四五・七七四石が稲葉丹後守知行の淀藩領、二五石が入木山支配の代官木村宗右衛門知行、九石がその子木村藤五郎の知行、七〇石が八幡社領、残る八・八九六六石は淀姫社領であった(山城国高八郡村名帳)。これらの農地をもつ農民はほとんどが納所町に居住していたようであり、村政全般は納所町との協同で、独自の村政は年貢収納関係のみに限定されていた。

納所村
のうさむら

[現在地名]肥前町大字納所

納所半島の先端部を占め、三方を海に囲まれる丘陵地。最高峰は遠見とおみ(一五三・三メートル)で、村内を浦田うらた川・京泊きようどまり川・海士あま川が流れるが水量に乏しい。海岸は沈降海岸で大小の入江があり、大半は絶壁である。赤瀬あかせ杭瀬くいせ折瀬おりせの暗礁があり、航海の難所。砥石を産する。

慶長絵図に村名がみえる。「松浦拾風土記」の寺沢家中分限に「二百石(納所村にて)川谷八右衛門。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報