日露協商(読み)にちろきょうしょう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「日露協商」の意味・わかりやすい解説

日露協商
にちろきょうしょう

日清戦争後,下関条約から三国干渉を経て日英同盟締結にいたるまでの時期に日本とロシアの間に結ばれた一連協定をいう。三国干渉によって,満州への足場である遼東半島還付を余儀なくされた日本は,満州から朝鮮にまで勢力を伸ばしたロシアと鋭く対立することとなった。そのため,朝鮮における日本とロシアの勢力関係を一時的に均衡すべく,両国間に小村=ウェーバー覚書 (1896.5.) ,山県=ロバーノフ協定が取りかわされた。これによって朝鮮における両国間の対立は一時小康を保つかにみえたが,1898年3月ロシアが旅順,大連の租借に成功し,かつ露韓合同条約の締結で韓国の財政権をロシア人顧問アレクセーエフが掌握するに及んで,山県=ロバーノフ協定は空文化された。この強硬策は韓国内の反感かい,排露主義を胚胎させることとなり,その結果,ロシアは日露間に新たに西=ローゼン協定を結ばざるをえなくなった。ここでは日露両国とも,韓国に対する内政不干渉,韓国政府より軍事教官,財政顧問派遣を要請されたときは相互に協議すること,ロシアは商工業および居留民数において日本の優越的地位を承認することなどを規定し,一方日本はロシアの旅順,大連租借を黙認することとなった。しかし,この協定も満州,朝鮮における両国の利害対立を解消するものとはなりえず,1900年夏の北清事変に際してロシアが満州全土を占領したのを境に,日本は日英同盟の締結によるロシアとの対決へと傾いていった。その後も日本国内では,伊藤博文,井上馨らが日露協商論を唱え,山県有朋らの日英同盟論と政策的に激しく対立したが,ロシアの領土的侵略主義,武力侵攻を「門戸解放」の名のもとに排撃し,大局的にみて英,米との提携を有利とする立場が結局は勝利をおさめ,日英同盟の締結にいたった。

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