1895年4月23日,下関条約による日本の遼東半島割取要求に対し,ロシア,ドイツ,フランスが東洋艦隊の武力を背景に清国への還付を勧告した干渉事件。日清戦争の結果,日本が清国の心臓部に分割の刃をむけることがわかったとき,列強は日本とともに即時清国分割に着手するか否かの選択にせまられた。ロシアはイギリス,フランスと連合して朝鮮の独立と領土保全を要求することを決めた。ドイツは英仏露協調に取り残されることをおそれ,日本に領土割取の抑制を求めつつロシアに共同行動を提案した。清国は講和交渉の過程で遼東半島の割譲要求阻止のために列強の介入を要請した。日本は講和条約に開市・開港場での製造業従事権を提示してイギリスの援助を求め,露骨に清国分割を提案した。
しかし,日本の提案は清国分割の準備がない列強にたいし逆効果であった。ロシアは4月8日,列強に共同干渉を提議した。ドイツは,(1)ロシアが日本に干渉し極東に矛先をむければ東方国境が安全になる,(2)共同干渉に加われば露仏同盟にくさびをうちこめる,(3)将来の清国分割に発言権を確保できるという理由で同調した。フランスもドイツ,ロシア間の緊張緩和を歓迎して同意した。しかしイギリスは製造業従事の許容を知って態度を一変し,日本をロシアの南下にたいする防壁とするために共同干渉への参加を拒絶した。ロシアのウィッテ蔵相は,日本の遼東半島進出はロシアの将来における極東進出を不可能とするから,直ちに日本に干渉し,拒否されたときは艦隊で港湾を攻撃するべきだと結論した。下関講和条約が調印された4月17日,ロシアは正式にドイツ,フランスに対日干渉を提議した。23日ロシア,ドイツ,フランス3国公使は,日本の遼東半島領有は朝鮮独立を有名無実とし,清国の首都に脅威を与えて東洋の平和を障害するとして遼東半島の放棄を勧告した。ロシアは艦隊を神戸に回航して日本を威嚇した。
4月24日に召集された御前会議は列国会議を開いて遼東半島問題を処理すると決定したが,陸奥宗光外相は,列国会議はヨーロッパ大国の新干渉を招くとして反対した。日本はやむなくイギリス,アメリカ,イタリア3国の後援をえてロシア,ドイツ,フランスに対抗しようとしたが,対清貿易の安定を望むイギリスの拒否をうけてその企図も失敗し,5月4日,遼東半島全部の返還を決定した。日本は下関条約の批准でひとまず遼東半島を領有したが,11月8日代償金4500万円を受けることで妥協し遼東半島還付条約に調印し,12月27日占領地の引渡しを完了,撤兵した。政府は遼東還付の責任論を逆手にとり臥薪嘗胆(がしんしようたん)のスローガンのもとで対露報復のための軍備拡張に世論を動員した。自由党は伊藤博文内閣と提携し,第9議会で代償金をもとに日本経済を育成すべく膨大な戦後10年計画を成立させた。清国は遼東の還付をうけたが,ドイツが膠州湾を占領したのをきっかけにロシアが旅順・大連を,フランスが広州湾を租借し,イギリスもそれに対抗して威海衛を租借し,清国の本格的分割がはじまった。
執筆者:藤村 道生
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日本の遼東(りょうとう/リヤオトン)半島分割に反対したロシア、ドイツ、フランス3国の干渉。日清(にっしん)戦争の講和条約である下関(しものせき)条約(1895年4月17日調印)で、日本は台湾、澎湖(ほうこ/ポンフー)列島とともに、中国の中央部に絶大な戦略的位置を占める遼東半島を中国に割譲させた。これに対し、調印後6日目、批准後3日目の4月23日、ロシア、ドイツ、フランス3国公使が外務省を訪れ、遼東半島を日本が所有することは、清国の首府を危うくし、朝鮮の独立を有名無実とし、極東の平和に障害となるから、その領有を放棄すべしと勧告してきた。ロシアをはじめとする列強の干渉を、日本政府は予期しないわけではなかったが、現実にそれが起こって対策に苦慮した。翌24日、大本営の置かれていた広島で急ぎ御前会議が開かれ、伊藤博文(ひろぶみ)総理大臣は、(1)勧告を拒絶して戦うか、(2)列国会議を開いて遼東半島問題をその会議で処理するか、(3)勧告を受け入れて恩恵的に清国に還付するか、の3案を提案、結局第二案を採択した。しかし舞子(神戸市)で病気療養中の陸奥宗光(むつむねみつ)外務大臣は、列国会議は新たな干渉を誘発する危険もあるとして反対、下関条約はあくまで批准交換し、日本の面目と威厳を保ち、それとは別に遼東半島の還付を考えるべきことを提案、伊藤もこれに賛成、天皇の裁可を得た。一方、陸奥は3国への回答を引き延ばすかたわら、イギリス、アメリカ、イタリアなどをしてロシアら3国を牽制(けんせい)させる方策、金州庁(きんしゅうちょう)を除く遼東半島の放棄、開港場の自由港化など、打開策を打診したが、もっとも頼りにしたイギリスが動かず、万策つきて、5月4日、日本政府は遼東半島の放棄を決定、翌日3国に通告、10日には天皇が詔勅でその旨を国民に告げた。日清両国は同年11月8日、遼東半島還付条約に調印、日本は還付の代償として庫平銀(こへいぎん)3000万両(テール)(邦貨4500万円)を得た。遼東半島分割は、それまで中国の周辺部分の侵略にとどまっていた列強の中国分割を一気に中国の中央部まで広げる先鞭(せんべん)をつけたもので、三国干渉は中国分割をめぐる列強の公然たる争いの第一歩となった。三国干渉後、日本では「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」の声のもと、対ロシア戦争に備える動きが強まった。
[中塚 明]
『陸奥宗光著『蹇蹇録』(岩波文庫)』▽『宇野俊一著『日本の歴史26 日清・日露』(1976・小学館)』
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下関条約(日清講和条約)の調印から6日後の1895年4月23日,ロシア,ドイツ,フランス3国が日本政府に対し,下関条約で承認された日本の遼東半島領有に反対し,その放棄を勧告した外交事件。日本政府は5月5日3国の勧告を受諾し,同年11月8日,清国に遼東半島を還付し,その代償として3000万両を得た。3国はこの干渉の報酬を清国に求め,ロシアが旅順,大連,フランスが広州湾,ドイツが膠州湾(こうしゅうわん)を租借した。これに乗じてイギリスも威海衛(いかいえい)および九竜を租借した。
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1895年(明治28)4月23日,日清戦争後の下関条約に対する露・独・仏の干渉。下関条約に規定された日本の遼東半島領有が「朝鮮の独立を有名無実に為す」ことを理由に,3国は同半島の放棄を勧告。これは清国の分割をめざす武力を背景とした干渉であった。伊藤博文首相は勧告拒絶を不可能と考え列国会議の開催を考慮したが,陸奥宗光外相は新干渉を招くとして反対し,日本は5月5日に干渉受諾,遼東半島放棄を通告した。この結果,11月8日に遼東還付に関する条約(遼東半島還付条約)が結ばれ,日本は代償として庫平(こへい)銀3000万両(約4500万円)を得た。以後臥薪嘗胆(がしんしょうたん)が報復の標語となった。
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[山東の近代と日本]
上記のような性格をもつ山東は,清末の列強の侵略に格好の門戸ともなった。日清戦争ののち1895年(光緒21),ロシア,ドイツ,フランスは,いわゆる三国干渉によって日本の遼東半島での利権獲得を制したが,その見返りとしてロシアは遼東半島を,ドイツは山東半島を要求した。いずれも華北を南北よりうかがう絶好の拠点であった。…
…清国は対日賠償のため巨額の借款を余儀なくされ,列強の利権要求を招いた。しかし,日本の遼東半島割取はロシア,ドイツ,フランスの三国干渉を招き,3国の武力に屈した日本は遼東半島を清国に還付し,国内では臥薪嘗胆(がしんしようたん)の声が起こった。【藤村 道生】。…
…日本が戦争目的を転じた結果民衆の抵抗が激化すると,日本軍は旅順で住民虐殺事件を起こし,朝鮮でも抗日反乱が再起した。
[講和と三国干渉]
清国はたび重なる敗戦により講和を望み使節を派遣したが,占領地域が不十分なため講和はなお時期尚早とみた日本は全権委任状の不備を理由に交渉を拒否,李鴻章の任命をまって3月20日下関春帆楼で講和会議を開いた。会議は日本が過大な条件を固守したため難航したが,李全権を狙撃・重傷を負わせる事件が起こり,国際世論の非難をおそれた日本の条件緩和をへて4月17日調印をみた。…
※「三国干渉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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