1902年から23年まで継続した日本とイギリスの間の攻守同盟条約。日本が朝鮮,中国に勢力拡大をはかるに際し,北方の帝政ロシアに対抗するため,東アジアにおけるイギリスの勢力を利用する傾向は,すでに日清戦争のときにみられる。イギリスもまたアジアにおける自国の利益を守るうえでロシアと対立しており,〈光栄ある孤立〉の伝統を放棄して同盟国を求める方向にあった。1900年中国で起こった義和団の蜂起と列国によるその鎮圧は,イギリスをして東アジアにおける日本の軍事力に注目させる機会となったし,また日本は義和団事件中に行った厦門(アモイ)占領計画に失敗し南進の企画をくじかれ,一方,ロシアの満州駐兵が進み,日本が朝鮮,中国への侵略をはかるうえで,北方のロシアとの対立が深刻化した。こうしたなかで,01年4月,林董(ただす)駐英公使は日英間の永久的協約について見解を表明し,10月には日本政府は林公使に日英同盟商議の権限を正式に付与した。日本国内では,日露協商を説く伊藤博文らと,日英同盟を要求する桂太郎らの意見が対立,確執を生じもしたが,結局,02年1月30日,ロンドンで林駐英公使とランズダウン外相の間で日英同盟協約が調印され,即日実施された。
この第1回日英同盟協約は6ヵ条からなり,イギリスの中国における,日本の中国,朝鮮における利益保護のための共同行動(1条),締約国のいずれかが利益保護のため第三国と交戦するときは他の締約国は厳正中立を守る(2条),締約国の一方が2国以上と交戦したときには他の締約国は参戦の義務を負う(3条),この協約を損なう内容の第三国との協約締結の禁止(4条),利益が危険に瀕(ひん)したときの相互通知義務(5条)などを取り決め,期間は5年と定められた。この協約がロシアを対象としていたことは明らかであるが,同時に第1条には〈清国又ハ韓国ニ於テ両締約国孰(いず)レカ其臣民ノ生命及財産ヲ保護スル為メ干渉ヲ要スヘキ騒動ノ発生〉した場合にも,両締約国は〈必要欠クヘカラサル措置ヲ執リ得ヘキコトヲ承認ス〉と明記されており,中国,朝鮮における民族運動を抑圧する目的をもっていたことも看過されてはならない。したがって日露戦争が日本に有利に進展し,日本の韓国に対する独占的支配が強まるなかで,日露講和条約を前にして,この日英同盟協約は改訂(1905年8月12日,林董駐英公使,ランズダウン外相が調印)され,イギリスは日本が韓国において〈指導,監理及保護ノ措置〉をとることを承認し,それと引換えに日本はイギリスがインド国境付近で特殊利益をもち,それを守るためにイギリスがとる措置を承認するなど,両国のアジアにおける植民地支配を承認・擁護する内容を強め,期間も10年に延長された。
しかし,日露戦争後,中国をめぐって日露が接近し,それと英米との対立の兆しがあらわれ,日英同盟もロシアを対象とするというよりも,ヨーロッパでイギリスが対立を深めつつあったドイツに対する牽制としての意味をもつようになった。このような国際状況を反映し,日英同盟協約は1911年7月13日改訂(加藤高明駐英大使,グレー外相が調印)され,その第4条で,すでにイギリスが〈総括的仲裁裁判条約〉を締結していたアメリカに対しては,この協約は適用されないことが規定された。14年の日本の第1次世界大戦への参戦は,日英同盟協約の〈協同戦闘〉の義務を理由として行われたが,この大戦の結果,国際関係は一変し,とりわけ東アジアにおいて日本と英米との対立は激化した。その結果,21年12月13日,ワシントン会議で調印された〈太平洋方面に於ける島嶼(とうしよ)たる属地及島嶼たる領地に関する四国条約〉の第4条で,日英同盟協約の〈終了〉が明記され,四ヵ国条約が実施された23年8月17日に失効した。
執筆者:中塚 明
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最初はロシア、のちドイツを対象とした日本とイギリスの軍事義務を伴う同盟。1902年(明治35)1月30日成立(第一次協約)。以後、第二次、第三次と継続更新されたのち、1923年(大正12)8月17日の日本、アメリカ、フランス、イギリスによる四(し)か国条約の発効により終了するまで、およそ20年6か月にわたり存続し、日本外交政策の骨髄と称された。
第一次協約をめぐる交渉は、北清(ほくしん)事変後中国をめぐる列強の対立とロシアの満州占領をきっかけに始められた。強大なロシア陸軍を牽制(けんせい)する必要からイギリスは「栄光ある孤立」を捨てて日本に接近した。日本では元老伊藤博文(いとうひろぶみ)らが満韓交換による対ロシア妥協の道を模索したが、小村寿太郎(こむらじゅたろう)外相を中心とする政局担当者は、ロシアと協商してもいずれ対決は避けられないとみて、駐英公使林董(はやしただす)に交渉を命じた。その結果、締約国が他の一国と戦争状態に入った場合に、同盟国は中立を守り他国の参戦防止に努める。また二国以上と戦争状態に入った場合は同盟国は参戦することを義務づけた同盟協約がロンドンで調印され、同時に海軍の協力に関する秘密公文が交換された。公文の趣旨に基づき同年中に軍事当局による協議が進められたが、日本は対露戦争に単独で臨む方針をとり、イギリスに軍事援助でなく財政援助を期待すると申し入れ、イギリスは好意的中立を約した。
第二次協約は日露戦争末期の1905年(明治38)8月12日に調印されたが、第一次協約が「日本が現に韓国において有する優勢な利益を擁護する」と定めていたのに対し、第二次協約は適用範囲を拡大してインドをも含めることとした。したがって協約の目的は、東アジアおよびインドにおける全局の平和の確保、日英の領土権の維持ならびに日英両国の特殊利益を防護するものになり、同盟の性格も防御同盟から攻守同盟に変更された。なお1907年日露協約、英露協商が成立したのちはしだいにその性格をかえてドイツを対象とするようになった。第三次協約はアメリカの対日世論が悪化するなかで1911年7月13日に調印されたが、アメリカを同盟の適用範囲外とした。それはイギリスがアメリカと交戦する可能性を消去するためであった。
第一次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)すると、日本はこの同盟を理由に連合国側にたってドイツに宣戦を布告し、青島(チンタオ)のドイツ租借地や南洋群島を占領した。第三次協約の期限が到来する1921年(大正10)7月を前に、中国をめぐってイギリス・アメリカと日本との対立が表面化すると、アメリカは、日英同盟が勢力範囲を相互に保障する排他的・軍事的な旧式外交の象徴であり、普遍的な国際協力による平和と安定を目ざす理想主義外交に脅威を与えるものとみなすようになった。そして太平洋の現状維持と領土保全を定めた四か国条約による置き換えを図り、実現した。
[藤村道生]
『信夫清三郎・中山治一編『日露戦争史の研究』(1959・河出書房新社)』
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1902年(明治35)から23年(大正12)まで継続した日英間の同盟協約。原文の英文には協約名はないが,日本では官報の用法により日英同盟協約という。
1第1回の同盟協約は1902年(明治35)1月30日調印。義和団の乱後のロシアの満州占領継続に対抗し,日本は韓国を勢力範囲として確保するために,イギリスは清国における利権保護と日本の軍事力利用とのために結ばれた。日英両国の清韓における利益擁護の相互援助,締約国の一方が他国と交戦の時は他方は厳正中立,2国以上と交戦の時は参戦するものとした。期間5年間。
2第2回は1905年(明治38)8月12日調印。日本の韓国保護権の確認と軍事同盟化,および適用範囲のインドへの拡大を決めた。期間は10年間。
3第3回は1911年(明治44)7月13日調印。アメリカに対して適用しないものとした。期間は10年。ワシントン会議で調印の四カ国条約の発効にともない,23年(大正12)8月17日廃棄。
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1900年義和団事件後ロシアの満洲進出を直接の契機として,02年1月ロンドンで調印された条約にもとづく,日本とイギリスの同盟。日清戦争後,朝鮮問題解決をめぐってロシアとの衝突を予測していた日本と,三国干渉や中東においてロシアおよびドイツ,フランスに脅威を感じ,日本の軍事力に注目したイギリスとの間に結ばれた。しかし日本は日露戦争後,朝鮮において独立的地位を確立したため,東アジアにおける機会均等の規定は05年改定された(第2次同盟)。やがて日本の満洲進出に伴い,英米は接近し,一方日本もロシアと秘密協商を結んだ。11年に第3次同盟が結ばれたが,ワシントン会議における四カ国条約で最終的に破棄された。
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…しかし19世紀末以降,列強間の帝国主義的対立が激化し,イギリスの軍事的・経済的実力が相対的に低下するにつれて,バランサーとしてのイギリスの役割はしだいに失われた。日英同盟の締結(1902)は,〈光栄ある孤立〉政策修正への第一歩であった。第1次世界大戦後のイギリスは,バランサーの実力に欠けた条件下で,ヨーロッパ大陸に勢力の均衡をなおも試みたが,結局は対独〈宥和政策〉として失敗した。…
…しかし,ヨーロッパ列強の資本主義が次第に発展し,世界各地での帝国主義的対立が激化した19世紀末,イギリスは孤立政策に危険を感じ,同盟政策へと転換する。その第一歩が,1902年の日英同盟であった。さらに中欧でのドイツの強大化やその海軍拡張政策は,英仏協商(1904),英露協商(1907)の締結へと踏み切らせ,イギリスは孤立政策を完全に放棄した。…
…しかし,17年10月のロシア革命によって廃棄された。 1902年に締結され,第1次大戦後のワシントン会議の四国条約の発効で廃棄されるまで続いた日英同盟は,この時期の日本の帝国主義化を支える根幹となった。その日英同盟とこの日露協約とによって,日本は第1次世界大戦までの帝国主義の世界支配のなかで自己の地位を確立した。…
…一方,日本は連合軍の一翼を担って大軍を派遣し,義和団の鎮圧により〈極東の憲兵〉としての有効な軍事力たることを実証した。このいわゆる北清事変以後,日本政府内には,東アジアで安定した国際的地位を確立するためイギリスとの接近をはかろうとする日英同盟論と,ロシアとの妥協により極東の平和を維持しようとする日露協商論とが台頭した。元老山県有朋や外相小村寿太郎らはロシアへの不信から前者を主張し,他方,元老伊藤博文,井上馨らは現実的な解決策として後者を推進しようとした。…
※「日英同盟」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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