早良郡(読み)さわらぐん

日本歴史地名大系 「早良郡」の解説

早良郡
さわらぐん

筑前国西部に位置し、東は那珂なか郡、南は背振せふり山地を隔てて肥前国神埼かんざき郡、西は怡土いと郡に接し、北は博多湾に臨む。近世の郡域はおよそ福岡市の城南じようなん区および早良区の大部分、南区の一部、西区の東部に相当する。

〔古代〕

「延喜式」民部上は「早良」、「和名抄」のうち伊勢本・東急本は「良」に作るが、高山寺本・東急本・名博本・元和古活字本の「早良」に従う。東急本・元和古活字本の訓「佐波良」、名博本の傍訓「サハラ」から「さわら」と読む。保安元年(一一二〇)六月二八日の観世音寺公験案「早良奴婢例文」(早稲田大学所蔵文書/大日本古文書(編年)一四)に、当郡の額田ぬかた郷戸主三家連豊継の父息嶋が観世音寺(現太宰府市)の稲八千二三〇束を負ったまま死亡したので、豊継と母早良勝飯持売が五人の奴婢を観世音寺に進上したことが記される。このような観世音寺との関係もあってか、寛弘二年(一〇〇五)一一月一五日の筑前国符案(国立公文書館内閣文庫所蔵文書/平安遺文二)によると観世音寺呉楽徭丁功代の荒田八町四段が早良郡に充給され、のち糟屋西かすやさい郷内に改充された。前掲公験案中の天平宝字二年(七五八)一二月二一日の三家連豊継解案が郡名の初見で、「早良勝足嶋」の名もみえるほか、翌日その文書を勘じた当郡の郡司として擬大領外従七位下三宅連(三家連)黄金、擬少領无位早良勝弟子、主帳外小(少か)初位上平草部(平群部か)が知られる。「日本紀略」延喜一六年(九一六)八月二二日条に郡司として三宅春則の名が記され、現西区飯盛いいもり羽根戸はねどにある飯盛山山頂の経塚から出土した永久二年(一一一四)一〇月一九日の年紀をもつ瓦経(糸島高校郷土博物館蔵)の銘(平金)に、結縁衆として「当時郡司壬生信道 介壬生貞宗」がみえる。郡家については現早良区の有田ありた遺跡群に比定する説が有力である。

寛仁三年(一〇一九)四月の刀伊の入寇に際し、当郡は怡土・志麻しま・那珂などの博多湾沿岸諸郡とともに被害を受けた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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