早野村(読み)はやのむら

日本歴史地名大系 「早野村」の解説

早野村
はやのむら

[現在地名]茂原市早野・緑町みどりちよう長清水ながしみず

東流する一宮いちのみや川を挟んで下茂原村の南に位置し、同川は村の東端北部で流れを南に変える。応永二年(一三九五)三月四日の法印尚賢書下(鶴岡事書案)によると、「早野」に鎌倉鶴岡八幡宮の数珠免が設けられており、これを知行していたとみられる天羽三位(阿闍梨頼円)が年貢一貫文を受取っている。この年貢は佐坪さつぼ(現長南町)政所が管轄している(同五年七月六日「法印尚賢書下」同書など)。しかし同二年には早野からの夏麦の納入が遅れたのに対し、八幡宮社家側は上使綿貫上総房継玄を派遣しており、同六年まで年貢滞納または遅延が繰返されたようである(応永二年五月一四日「法印尚賢書下」・同六年一二月二三日「法印倫瑜書下」同書など)。この間、上総房は応永四年当地数珠免などを恩給されている(同書同年八月条)

文禄三年(一五九四)と推測される長福寿寺寺役僧連署申文(三千院文書)に「辰之年之十二月日蓮党ニ を被取、就之少々出入候処ニ、はやの□申候」とみえる。

早野村
ときのむら

[現在地名]糸貫町早野はやの

三橋みつはし村から糸貫川を隔てて西に位置し、根尾ねお川と糸貫川に挟まれた緩傾扇状地平野に立地。土岐野村とも書いた。戦国時代、早野城に中島吉右衛門が拠った(濃州城主誌略)。享禄五年(一五三二)六月一〇日の七ヶ井名主百姓等連署人数帳(堀部千氏所蔵文書)に早野高橋六郎兵衛方とみえ、当時高橋氏が当地の代表的名主であった。天正一五年(一五八七)四月二日と年欠三月二四日の一柳直政書状(守屋文書)では早野村と上下の両真桑村(現真正町)が糸貫川河原野の帰属をめぐり争論し、当時当地を領していた豊臣秀吉家臣一柳氏がこれを裁可している。また年欠四月六日の一柳末安書状(安藤鉦司氏所蔵文書)では、従前のように当村ほか四ヵ村に真桑まくわ用水路を掘るよう命じている。

早野村
はやのむら

[現在地名]麻生区早野・にじおか一―三丁目

都筑つづき郡に属し、東南は上・中・下くろがね(現横浜市緑区)、西は寺家じけ(同上)、北は王禅寺おうぜんじ村に接する。田園簿に村名がみえる。慶長三年(一五九八)旗本富永領。元禄一五年(一七〇二)検地帳(石井文書)が残る。「風土記稿」によれば、水利が悪く、溜井七ヵ所を掘り用水に用いたという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報