中国,明代の基本的刑法典。明の太祖朱元璋は創業の初め,1367年(呉1)に律令の制定に着手し,翌年これを公布した。のち三たび改定され,今日みる明律はその最後の97年(洪武30)に修定されたものである。唐律と異なり,名例,吏,戸,礼,兵,刑,工の7律から構成される。唐律を模範としながらも,宋・元の法制をふまえて時代に適応するよう形式,内容を新たにしている。たとえば,刺字(いれずみ)の刑や凌遅処死という極刑をとり入れ,唐律にくらべ厳格な刑罰体系になっている傾向がみられる。清律にもおおむね踏襲され,また日本,朝鮮,安南の法律に影響を与えた。次項の《明律国字解》をも参照のこと。
→律令格式
執筆者:植松 正
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…(2)は入墨刑,敲(たたき)刑によって構成されている。幕府ははじめ耳そぎ,鼻そぎの刑を用いたが,1720年(享保5)将軍吉宗が明律の刺字(しじ)(顔面への入墨),中国法系の笞杖(ちじよう)刑を参照して入墨,敲刑に代え,窃盗罪,博奕罪の刑とした。入墨,敲刑が幕府刑罰中適用頻度が最も高かった。…
… モンゴルを北方に駆逐して中原を回復した明の太祖は唐の盛時を再現せんとする意気込みをもって律令の編纂を命じた。政府は初め唐律に範を取り件別に分類して編目を立てたが,それでは実際にはなはだ不便であることがわかり,改めて《元典章》にのっとり,六部に区分し直して編纂したのが1397年(洪武30)の《大明律》である。これが以後長く東亜の刑法の標準となり,明をうけた清朝の《大清律》も内容はほとんど変わるところがない。…
…(1)刑法典 藩制定法の多くは単行法令の形で出されたものであったが,幕府における《公事方御定書(くじかたおさだめがき)》の制定が刺激となって,いわゆる藩刑法典を編纂した藩も少なくなかった。これには《公事方御定書》を模倣した御定書系のものと,中国法を移入した明律(みんりつ)系のものとの2種類がある。(a)御定書系統のものは,1778年(安永7)の福井藩〈公事方御定書〉,89年(寛政1)の丹波亀山藩〈議定書〉,1809年(文化6)の盛岡藩〈文化律〉,25年(文政8)の松代藩〈御仕置御規定〉,52年(嘉永5)の鳥取藩〈律〉が知られている。…
※「明律」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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