律・令・格・式なる4種の法典は歴代の政府が発布した六法全書のごときもので,古くは戦国時代に淵源し,唐代に至って最も完備されたが,宋以後変化が起こり,あるいはその重要性を失って新出の法典に座を譲り,あるいは形式名称を変えて旧面目を失うものが多いなかに,ただ律は明代に復興して大明律となり,さらに大清律となって清朝末期にいたった。
現今目睹しうる最古の刑法である律は秦律であり,1975年湖北省雲夢県の睡虎地で秦代の墓から1000余枚の竹簡を発見した中に,占卜書2種を除くほかはおおむね政治,法律に関する文書であり,数種類の秦律が含まれていることがわかった(睡虎地秦墓)。ことに注意すべきは政治文書の中に魏律が引用されている点で,後進国たる秦が,隣接する先進国の魏からたびたび亡命者を迎えて国政改革を図った歴史の記録がそのままの事実であったことが証明されたわけである。戦国諸国の法制は専制君主の下に成立した領土国家法の段階にあり,四方に外敵あるを予想して富国強兵を目的としたものであった。しかし秦が天下を統一した以上は,人民を安堵させ,平和と幸福をもたらすべく,普遍法を創立せねばならなかったにもかかわらず,秦の政策は天下に秦の吏を派遣し,秦固有の法をそのまま新領土の人民に強制したため,人心の離反を招いて天下大乱に陥り,たちまち滅亡にいたった。秦に代わった漢王朝は秦の轍を踏まぬために,秦法の過酷な部分を除き,新たに漢律を制定したが,初めはなお秦の影響を免れることができず,天下に通用してとどこおりなき普遍法が出現したのは7代目武帝の治世と思われる。
漢以後中国の法典はしだいに整備され,唐にいたって律令格式の完備した体系の成立を見るが,漢から唐にいたる間に,注目すべき二つの傾向が進行したことを指摘できる。
第1は律の儒教化である。律はもともと法家の手によって発達し,法家の学説によって運営された。しかるに漢代の政界に儒家の勢力が台頭し,両派の間に党争が繰り返されたが,前漢の末ごろに至って儒家の勝利が決定的となった。そもそも法家は天子を法の源泉とし,法律万能主義で仮借なく法を励行して,儒家のような温情を認めないのに対し,儒家は徳義を法以上のものとし,法は儒教主義を守る目的のためにこそ存在するものとする。唐にいたって科挙の上で,儒学的教養に基づく秀才,進士,明経の出身者が官界に重んぜられたのに対し,法律専門の明法は職業的技術なる算学,書学などとともにはるかその下流におかれた。律の主たる目的も,したがって妻妾を含む四世同堂の大家族制度,官制上の階級制度,封建的な良賤の身分制度の維持におかれた。
第2の傾向は,令がしだいに重要性を増したことである。漢代の令は律の補足的な法規であったが,晋の泰始律令において,令は初めて律から独立し,行政法のごときものとなったといわれる。唐にいたって令は律よりも重要な根本法典となったが,ただその順序は慣例に従って律令と呼ばれた。唐初の政治には高邁な理想があり,耕す者には田ありの主義に従って均田法があり,国防には全国の壮丁が当たるという国民皆兵主義の府兵制があり,上古3代聖王の黄金時代の復活を志している。今日の学者が律令制というときも,その意味するところは律ではなく,令に盛られた田令,賦役令,軍防令などの諸条項を指しているのである。そしてそれは長い期間にわたって発達し,唐代に大成されたものであった。
いわゆる律令制の中で最大の特色とするのは均田制である。その均田制の対象とされる農民を課戸と言うが,課戸は一種の身分である。課戸は一定の農地の分配を受けるはずであるが,その農地が規定よりもはなはだしく狭小な場合でも,その負担である租庸調の徴集は減額されないのである。ゆえにこれは土地面積に従って地租を納める小作人とはまったく性質を異にする。この課戸に対する給田が十分でないにもかかわらず,負担のみ重く,ことに戦争が永続すると軍役が過重になり,課戸は亡命して,浮浪者となり,国家の掌握から逸脱するが,それがはなはだしくなると,均田制そのものが崩壊する。それが唐の中期に起こったので,令の精神は実行不能となり,あとに残るのは官制,職制の規程ぐらいである。均田制が崩壊すると政府は専売制度を創設し,その益金によって財政をまかなわねばならなくなり,これに対する密売を取り締まるため峻厳な刑法をその時々に発布し,これを勅と称した。勅の出現により律は骨抜きとなり,宋にいたって法典を総称するに,勅律令格式というが,多くは律を省略して勅令格式と称した。宋代の令もすでに理想を失った抜殻で,官制などの羅列にすぎない。ゆえに宋代にも律令格式が形式的には備わっているが,これを律令制度とも,律令国家ともいわないのが普通である。
唐代の格は律令を部分的に補訂する詔勅などをまとめたもので,日本の格に近いが,宋代になると主として賞格のごとく,資格を授与する規程の意味に用いるようになった。式は初めから施行細則などを含む補助的諸規程である。
執筆者:宮崎 市定
820年(弘仁11)に制定された弘仁格式序が,〈律は懲粛を以て宗(むね)とし,令は勧誡を以て本(もと)とし,格はすなわち時を量(はか)って制を立て,式はすなわち闕(けつ)を補って遺を拾う,四者あいまって範を垂るるに足る〉と述べているように,律は刑罰法,令は教令法,格は単行法令,式はそれらの施行細則をいうが,あわせて律令格式の4語をもって律・令を中核とする成文法の体系をもいう。ただし,律と令は編纂された法典についていうものであるが,格と式は個々の単行の法令をいう場合と,それらを編纂した法典をいう場合とがある。また令の教令法たるゆえんは,教令の対象が人民一般ではなく官人であるところにあり,それゆえその規定の大部分は官人が履行すべき行政法規で占められている。これらの淵源はいずれも中国にあるが,中国での律令法は,秦・漢の律に始まり,ついでその副法として令が生まれ,さらにそれらの副法として格・式が生まれるという経過をたどった。律令格式の4語が成文法の体系を意味するものとなり,かつこの四者の法典がそれぞれ編纂されるにいたったのは隋代からで,唐代にいたって律は〈正刑定罪〉,令は〈設範立制〉,格は〈禁違正邪〉,式は〈軌物程事〉の法として,発達の頂点に達した。日本での法典としての律・令・格・式の編纂は,こうした唐代の状況を模して行われたものであった。以下,それぞれの発達の過程をみることにする。
(1)律 中国において,律は,国家・社会の秩序の根本規範である礼・楽を補完する刑(法)・兵(軍事)のうちの,刑の成文法として発達した。その意味で律は,中国固有の社会組織に深く根ざした法であった。そのため国家のなりたちと社会の組織を異にし,礼・楽の未発達な日本では,これの継受は困難であったとみられ,法典としての律の編纂は令のそれよりおくれて大宝律(701制定・施行)に始まり,続く養老律(718ころ編纂,757施行)との,2度の編纂をもって終わる。唐律のうちの,同姓不婚などの家族制度の違いから日本に適用しがたい規定を削除したような例を除き,おおむね唐律の文章を引き写して条文を作成している。ただ全般的に刑を軽くしている点に,特徴がある。しかし律は日本にはなじみにくく,現実における効力も乏しかったとみられる。
(2)令 法典の編纂は,近江令(おうみりよう)(ただし存在しなかったとする学説もある),飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりよう)(689施行),大宝令(701制定・施行),養老令(718ころ編纂,757施行)の4度におよぶ。行政法規ないしは国家機構に関する規定を中心におく令は,社会組織の相違を超えて律よりもはるかに継受しやすいものであったから,法典の編纂も律に先行し,その内容も日本の実情に適合するようかなり改変されている。ただし,人民を政治的に無権利な状態におき,臣下が構成する官僚機構がこれを統治し,皇帝を法超越的な絶対者として位置づける唐令の理念は,日本の令にもそのまま継承されている。8世紀後半に,刪定律令(さくていりつりよう)(刪定令とも)24条,刪定令格45条が撰定されたが,いずれも養老令の部分的修訂にとどまった。
(3)格 律・令の規定を部分的に修正するために出される単行法令を一般に格というが,8世紀においてはそうした単行法令のうち,勅に出ずるものないしは勅で施行の許可が与えられた法令を,格と称していたらしい。法典としての格の編纂は,桓武朝に始まる。すなわち803年(延暦22)制定・公布の《延暦交替式(えんりやくこうたいしき)》がその初めであって,これは式とは称していても,それ以前に施行された地方官の交替に関する単行法令を生の形で収載した点において,またのちに編纂される《弘仁格》が,《延暦交替式》に収める法令はそれにゆずり,両書あいまって単行法令集としての体系をつくりあげている点において,格とみなすべきものである。その,《延暦交替式》と一体となるべき格の編纂も桓武朝で企図されたのであったが,このときは果たされず,嵯峨朝の820年(弘仁11)にいたって成り,830年(天長7)に施行された。これが《弘仁格》である。このとき同時に《弘仁式》も制定・施行されたから,ここにいたってようやく律・令・格・式が相ならぶこととなる。その後の格には,《貞観格》(869制定・施行),《延喜格》(907制定,翌年施行)があり,《弘仁格》とあわせて三代の格という。一方,交替式も貞観・延喜の両度の編纂があった。ただし《貞観交替式》は《延暦交替式》にその後施行された単行法令を追加するという形態をとっているが,《延喜交替式》は法令集としての体裁を一変し,つぎに述べる式と同じ形態のものとなっている。
(4)式 律・令および単行法令としての格の施行細則を一般に式というが,これは単独で公布される場合もあるし,単行法令とともに公布される場合もあった。後者の場合は,式とも,別式とも称される。また式に類するもので,諸司が執務上慣例としている法規などは,例(れい)と称された。そしてこうした広い意味での施行細則を集めて法令集を編する試みは,律・令の編纂についで古くから行われた。まず養老律令の編纂と並行して,養老令の諸規定を補完する施行細則を集めた〈八十一例〉が編纂され,同じころ〈式部省例〉〈治部省例〉〈民部省例〉〈刑部省例〉〈囚獄司例〉などの諸司別の例が編せられている。ついで759年(天平宝字3)中納言石川年足(いしかわのとしたり)は《別式》20巻を撰定したといわれ,またこのころには諸司別の式も存したらしい。8世紀末には,和気清麻呂(わけのきよまろ)が《民部省例》20巻を編したとも伝えられている。しかし国家の事業としての式の編纂は,《弘仁式》(820制定,830施行)に始まり,《貞観式》(871制定・施行),《延喜式》(927制定,967施行)と続く。これを三代の式という。これらはいずれも,諸司別に施行細則を編したものであった。これらと並行して,朝廷の儀式・行事の細則を定めた《儀式》《内裏式》なども編纂された。
このように,厳密にいえば,弘仁格式の施行以後,日本は律令格式の時代に入る。貞観格式をへて,そして延喜格式が施行されてからのちは,律・令と延喜格式が現行法としてながく運用されることとなる。だがこのような法体系がしだいに形骸化する過程において,そうした法のなかの現実に慣習化された法のみが生き残り,それに新たな慣習法が加わって,公家法といわれる新たな法体系が生まれるのである。11世紀から12世紀にかけての時期は,そうした意味での法の変質期であったといえる。
→律令法
執筆者:早川 庄八
朝鮮三国では律令の条文が残っていないことから,律令の存在を否定する説,律令の体裁を整えない成文法が成立していたとする説,中国の律令が受容されていたとする説などがある。律令受容説では,《三国史記》の関係記事から,高句麗では晋の〈泰始律令〉(268制定)を受容して373年に律令を制定し,新羅ではこの高句麗の律令を受容して520年に律令を頒布したとしている。しかし,これら三国時代の律令は,いまだ法体系が確立しておらず,慣習法の一部が成文化されたものとみられる。新羅では7世紀中葉以降,格式があらわれ,律令的な法体系が整備された。新羅の律令をみると,律は南北朝期の中国律に強く影響され,令は唐令の形式をとっているが,内容的には新羅固有の法体系によっている。例えば,職官令では官位・官職相当官制をとる日本や唐の令と異なり,新羅の特殊な身分制度を基盤とする職官制度をとっている。また,新羅の中央官職制度では,651年から685年ころまで四等官制がとられていたが,この制度が日本の四等官制に影響を与えたものとみられる。さらにもっとも重視された国家祭祀をみると,唐令では儒教の最高神および王朝の祖先神の祭礼,日本の養老令では天皇の即位儀礼,《三国史記》祭祀志では王都周辺の山岳神(地域神)の祭祀である。これらのことから,三国の律令体系にはかなり大幅な相違があり,新羅の場合,貴族連合体制時代の法体系が,根強く残存していたものとみられる。9世紀以降,新羅の王権が衰退すると,律令体制もしだいに弱体化した。
高麗時代もまた律令編纂を明示する史料がなく,唐律令の借用説さえある。しかし,《高麗史》刑法志には高麗律(実質は律令)が,約100条も伝えられている。この高麗律令は,唐や宋の律令の簡略化,一部の改変,細分化などがみられ,独自の内容をもつ条文とみられる。また,格式の存在も知られ,格は唐格の形式をとっているが,式は唐式とかなり異なっている。法体系として完成された唐の律令格式に対し,高麗のそれは体系化や定着性で著しく相違している。国王の命令である制・教が大量に発せられ,これが法制の基準とされ,律令は基本法から付属法へその法的地位を移すことになった。13世紀以降には,律令の編纂は行われず,元の支配時代には元の〈至正条格〉が使用され,高麗末期には明律も用いられた。
1392年李氏朝鮮王朝(李朝)が成立すると,洪武22年(1389)の明律を採用し,これを普及させるため,95年には吏読(りとう)による解釈本《大明律直解》をつくって全国に配布した。しかし,1460~84年に《経国大典》が公布され,その後《大典続録》(1492),《続大典》(1744)など李朝独自の法典があいついで編纂・公布されると,明律の適用範囲が狭められ,《刑法大全》(1905)の公布によって,明律は廃止された。なお,ベトナムへの影響については,〈レ朝刑律〉と〈皇越律例〉の項目を参照されたい。
執筆者:井上 秀雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
中国、初唐で完成した成文法体系。日本では「りつりょうきゃくしき」と読み習わしている。
[池田 温]
周代にすでに刑法、契約法、行政法などが相当に発達していたことは、『周官』『尚書呂刑(りょけい)』、あるいは金文の銘記によくうかがわれる。春秋時代には晋(しん)で鼎(てい)に刑法条文を鋳込んだとの伝えがあり、戦国時代に至り富国強兵を目ざす列国で法の整備が進み、魏(ぎ)の李悝(りかい)の『法経』6篇(へん)は秦漢(しんかん)法の祖となったという。1975年、湖北省雲夢(うんぼう)県睡虎(すいこ)地の秦墓から、竹簡に記された全国統一直前の秦律や法律問答、封診式(刑事関係書式集)などが発掘され、なかには魏の安釐(あんり)王25年(前252)の戸律と奔命律各1条も含まれていた。これらを通じ、律(刑法)を中核とする成文法の発達程度とその内容の豊富さが広く知られるようになった。諸子百家の一派として台頭した法家は、君主の権謀術数を理論化し中央集権的法治を目ざし、法家の商鞅(しょうおう)の変法を契機として急速に国勢を強めた秦が、ついに全国統一(前221)を成し遂げ、2000年の中華帝国の開基をなした。ところが法治万能の秦の支配は、圧政に反抗する伝統貴族や負担に耐えかねた人民の抵抗にあい、わずか2世15年で崩壊し、法三章を約束し、部分的に封建諸侯を復活した漢にかわった。漢代には盗・賊・囚・捕・雑・具・戸・厩(きゅう)・興の九章律を基本とし、随時、皇帝の制詔(令ともよばれる)などを通じ補充改正が図られる形で年代とともに法条がおびただしくなっていった。前漢後期には儒家のイデオロギーを王朝が採用するようになり、裁判にも春秋の義を用いるような儒教化がみられた。
漢朝崩壊後、三国魏の曹操(155―220)は法術を重視し、当時、律の整備と令の発達をみたが、ついで西晋(せいしん)の泰始4年(268)に、律(刑罰法)と令(行政法)の二大法典併立が定着した。律・令を補うものとして科・故事などの法条と詔勅による立制が併用されたが、下って北朝後期に北斉(ほくせい)の麟趾(りんし)格(541)、北周の大統式(544)を経て、補充法規の代表的名称が格と式に落ち着くようになり、隋(ずい)初の開皇年間(581~600)に律令格式の体系が成立した。
[池田 温]
隋朝では開皇1年(581)と3年、大業3年(607)、また唐朝では武徳7年(624)、貞観11年(637)、永徽(えいき)2年(651)、垂拱(すいきょう)1年(685)、神竜1年(705)、開元3年(715)、開元7年、開元25年と律令の改訂が繰り返され、皇帝の代がわりや政治状況の変動に対応して新制を公布する理念を背景に有した。ただその改訂は部分的なものにとどまり、律令の構成や条文の主要内容は開皇から開元25年律令までほぼ一貫しており、実質的改制はおもに勅や格を通じて行われた。
律は名例、衛禁、職制、戸婚、厩庫(きゅうこ)、擅興(せんこう)、賊盗、闘訟、詐偽、雑、捕亡、断獄の12篇計約500条よりなり、永徽4年(653)に官撰(かんせん)の注釈律疏(りつそ)(のちに唐律疏議とよばれる)が完成した。つとめて客観的に個々の犯罪を明文で規定し、それに対応する処罰を五刑(笞(ち)、杖(じょう)、徒(と)、流(りゅう)、死)で定め、司法官の擅断(せんだん)を排する点では近世欧州の刑法典に比しても遜色(そんしょく)がない。ただ皇帝へ対する謀反をはじめ重罪10種を十悪として掲出し、身分特権による優免や減刑を八議に及ぼし、親族内では尊長の卑幼に対する優位を強調するなど、身分秩序の維持に重点の置かれるところに、近代法と異なる特徴がみられる。
令は官品に始まり、官僚組織を定めた6篇の職員が続き、以下、祠(し)、戸、学、選挙、封爵、禄(ろく)、考課、宮衛、軍防、衣服、儀制、鹵簿(ろぼ)、楽、公式、田、賦役、倉庫、厩牧、関市、医疾、仮寧、捕亡、獄官、営繕、喪葬、雑の33篇約1500条、行政機構に則し国制の諸般を定めた非刑罰法規で、民法、商法にかかわる条項も部分的に含まれる。
格は詔勅による改制、新制のうち永く遵用すべきものを成書に編纂(へんさん)したもので、尚書省六部二四司の曹名を篇目とする。格には中央官庁内で行われる留司格と、全国に頒行される散頒格の2種があり、開元年間にはさらに格後勅という法典も編纂された。式は官司の参照すべき施行細則の類で、六部二四司と秘書、太常、司農、光禄、太僕、太府、少府、監門宿衛、計帳勾帳の33篇よりなる。
勅や格は律令に優先するので、のちには固定化傾向の強い律令をしのぐ重要性をもつようになり、宋(そう)では法典体系を勅令格式とよぶように律令格式は集権的官僚機構に適合した法典として発達したが、主権者である皇帝は実は律令を超越した存在で、その意志は成文法に制約されない。ただ皇帝も恣意(しい)を抑制し官僚の守法を達成せしめるところに、その大権への社会的要請が存し、唐の太宗はその典型と仰がれた。唐後期になると社会の変質が進み、律令制の拠(よ)って立つ郷里、均田、租調、府兵などの国制が弛緩(しかん)し、律令格式の機能も退化せざるをえなくなり、律のみは明(みん)律、清(しん)律にまで受け継がれたが、令格式は元・明以降会典、則例などに席を譲る。
律令格式は東アジアの周辺諸国にも影響を及ぼし、そのもっとも顕著なものが古代日本であった。
[池田 温]
『三国史記』には高句麗(こうくり)が373年に、新羅(しらぎ)が520年に律令を公布したとある。高句麗の律令を晋(しん)の泰始(たいし)律令によるとする説もあるが、慣習の一部を成文化した程度であろう。新羅では651年に律令格式を制定する理方府ができ、654年には理方府格60余条を、805年には公式20余条をつくった。新羅令の条文は残っていないが、『三国史記』の記事から推測すると、新羅令の編名は唐の開元25年令(737)や日本の養老令(ようろうりょう)に類似しているが、条文の内容はかなり大幅に異なっていたとみられる。
高麗(こうらい)前半の律令は唐の律令の編名・条文に類似したものが多く、後半では元の「至正条格」も用いられた。李(り)朝では開国以来、明律が採用されたが、その運用には朝鮮社会の実情が考慮された。1460~61年公布の『経国大典』『続大典』『大典会通』などは明律の適用を制限し、1905年公布の『刑法大全』で初めて朝鮮の実情に即した法令となった。
[井上秀雄]
7世紀後半、中央集権国家の形成にあたり、中国の律令が体系的に導入され、10世紀ころまで律令の法体系が政治支配の基本としての役割を担った。天智(てんじ)朝には近江令(おうみりょう)が制定されたといわれ、続いて天武(てんむ)天皇は律令の制定を命じ、持統(じとう)天皇の689年、令22巻が施行された(飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう))。文武(もんむ)天皇の701年(大宝1)大宝律令(律6巻、令11巻)が完成、その後718年(養老2)養老律令(律・令各10巻)が編纂(へんさん)されるが、内容は大宝律令と大差なく、大宝律令は757年(天平宝字1)まで施行。これらのうち成書の形で現存するのは養老律の一部と養老令の大部分で、養老令は『令義解(りょうのぎげ)』『令集解(りょうのしゅうげ)』という注釈書の形で伝わる。他方、9世紀に入ると、社会の変化に伴う律令の規定の改変が著しくなったことと、国家の法式の整備を図る時代の風潮とがあい応じ、既出の単行法令や法規集を整理して格式(きゃくしき)にまとめる作業が行われ、嵯峨(さが)天皇の820年(弘仁11)撰進(せんしん)の弘仁(こうにん)格式をはじめ、弘仁・貞観(じょうがん)・延喜(えんぎ)のいわゆる三代格式が編纂された。格はのちに三代の格を分類・編集した『類聚(るいじゅ)三代格』が残存している。そのほか、国司交替に関する延暦(えんりゃく)・貞観・延喜の各交替式、宮廷の儀式に関する『内裏式(だいりしき)』『貞観儀式(じょうがんぎしき)』、蔵人(くろうど)や検非違使(けびいし)の職務に関する『蔵人式』『左右検非違使式(さうけびいししき)』なども編纂された。
[笹山晴生]
『大庭脩著『秦漢法制史の研究』(1982・創文社)』▽『仁井田陞著『中国法制史』(岩波全書)』▽『仁井田陞著『唐令拾遺 縮刷影印本』(1964・東京大学出版会)』▽『律令研究会編『訳註日本律令』全10巻(1978~91・東京堂出版)』▽『井上光貞他編「律令」(『日本思想大系3』1976・岩波書店)』▽『石母田正著『日本古代国家論1』(1973・岩波書店)』
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…そこで制定のたびにその時の年号によって永徽律とか,開元令とか呼ぶ習わしである。現今唐の律令格式のうち,令格式は散逸して,開元律(737(開元25)制定)のみがほぼ完全に残っている。律は刑法であるが,令は政治のまさにあるべき形を命じた行政法のごときもの,格は部分的に律令の実施を変更するもの,また資格の格のごとく,ある条件に対してある資格が与えられるという規則など,式は令を補う細目で文書の書式などをも含む雑則である。…
※「律令格式」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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