日本歴史地名大系 「明教館跡」の解説 明教館跡めいきようかんあと 愛媛県:松山市松山城下二番町明教館跡[現在地名]松山市二番町四丁目文政一一年(一八二八)二月に、松山藩主松平定通によって創建された藩校。定通はこれより先、文化二年(一八〇五)に創設された学問所興徳(こうとく)館のあとを継いで本格的な藩校を建て、そのなかに朱子学・国学を中心とする学問所と、武芸の稽古場とを併置した。敷地は二番(にばん)町の西端の東門屋敷(ひがしもんやしき)跡をはじめ家臣の邸跡を利用し、校舎・講堂・演武場・寄宿寮などを新築した。教授には日下陶渓(一七八五―一八六六)・高橋復斎(一七八八―一八三四)の昌平黌出身の藩儒が任ぜられ、徒士以上の子弟を収容した。定通は学問・武芸の興隆を図ることによって藩士の綱紀を粛正し、ひいては藩政の補強に資せんとした。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by