明智城(読み)あけちじょう

日本の城がわかる事典 「明智城」の解説

あけちじょう【明智城〈岐阜県恵那市〉】

岐阜県恵那市にあった中世の平山城(ひらやまじろ)。岐阜県指定史跡。信濃・三河国境に近い、明智の町を見下ろす比高70mほどの通称城山に築かれていた典型的な山城である。鎌倉時代の1247年(宝治1)、遠山明智氏の祖遠山景重が築城したといわれている。戦国時代に入り、城主の遠山氏は武田信玄に従っていたが、岩村城主の死をきっかけとして、武田氏から離反して織田信長臣従した。このため、1572年(元亀3)に信玄の部将の秋山信友が岩村城(恵那市)を攻略した後、同年12月に明智城も信友により落城した。1574年(天正2)の信玄の死後、明智城は織田氏によって奪還されたが、再び、武田勝頼がこの城を攻略して武田氏が支配した。しかし、翌年の1575年(天正3)、長篠・設楽原の戦いで武田勝頼が織田・徳川連合軍に敗れた後、信長嫡男の信忠が岩村城と明智城を攻め、落城させている。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いでは、城主子孫の遠山利景徳川家康旗本として東美濃を平定し、このとき西軍に属していた先祖の城(明智城)を奪還した。その功績から、利景は家康から旧領を与えられ、明智城に入城した。しかし、1615年(元和1)の一国一城令により明智城は廃城となり、遠山氏は城山のふもとに陣屋を築いて居館とした。この陣屋は旧明智城の大手門付近に建てられたといわれている。遠山氏は以後12代にわたって明治維新まで旗本として存続した。なお、本能寺の変で織田信長を討った明智光秀は、この城で生まれたともいわれる。ただし、長山城(可児市)生誕説もある。ちなみに、光秀は土岐氏支流の明智氏で、遠山氏とは異なる。この長山城も明智城と通称されることがあり、岐阜県内には2つの明智城があることになる。現在、城跡には土塁、竪堀、横堀などの遺構が残っている。陣屋跡の北側の龍護寺は、遠山氏の菩提寺で本堂左側に遠山氏累代の墓があるほか、同寺の山門入り口手前に、明智光秀供養塔がある。明知鉄道明知線明智駅(JR中央本線・恵那駅から乗り換え)から徒歩約20分。名鉄広見線明智駅は場所も異なる別の駅なので注意。◇白鷹城ともよばれる。

あけちじょう【明智城〈岐阜県可児市〉】

⇒長山城(ながやまじょう)

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

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