日本大百科全書(ニッポニカ) 「智首」の意味・わかりやすい解説
智首
ちしゅ
(567―635)
中国、唐代の律僧。俗姓は皇甫(こうほ)氏。幼少より離俗の心があり、相州(河南省)雲門寺智旻(ちびん)のもとで沙弥(しゃみ)となる。「四分律(しぶんりつ)」に精通し、22歳で受戒したが、その得否を疑い、古仏の塔前で顕証を祈願すると、仏が現れて法を授けるしるしとして頂を摩するのを感受し、身心が安らかとなった。河北の道洪(どうこう)の名声を聞いて師事し、律学700人中の随一といわれた。隋(ずい)の文帝(楊堅(ようけん))が長安に大禅定道場(だいぜんじょうどうじょう)を建立したとき、智首は智旻に従って同寺にとどまって講説に努め、広く三蔵(さんぞう)(経、律、論)を考定した。当時は律蔵が東伝してから600年にもなっていたが、五部(法蔵部(ほうぞうぶ)、化地(けじ)部、有(う)部、飲光(おんこう)部、大衆(だいしゅ)部の五部、また一説には大衆部のかわりに犢子(とくし)部を数えることもある)の律が混じて未分のため、『五部区分鈔(ごぶくぶんしょう)』21巻(現存せず)を著して五部律の同異を尋ね、廃立を定めた。智首の門弟指導は厳格で、持律の者は争ってその門に至った。法統は四分律の正系に属し、法聡(ほうそう)―道覆(どうふく)―慧光(えこう)(468―537)―道雲(どううん)―道洪(どうこう)を経て智首に伝わり、門人の道宣(どうせん)によって四分律宗(南山宗)が成立した。634年(貞観8)弘福寺(ぐふくじ)の上座となり、翌635年69歳で示寂。著書に『四分律疏(しぶんりっしょ)』20巻があり、巻9のみが現存する。
[佐藤達玄 2017年3月21日]