更屋敷村(読み)さらやしきむら

日本歴史地名大系 「更屋敷村」の解説

更屋敷村
さらやしきむら

[現在地名]神戸町更屋敷

揖斐いび川の扇状地に開けた平坦地に位置し、東は川西かわにし村、北は末守すえもり村。寛永年間(一六二四―四四)頃に大垣藩領末守村の枝郷から分村したと考えられ、同藩領として幕末に至る。正保郷帳に村名がみえ、田高三〇六石余・畑高六〇石余。村高は天保郷帳四六六石余、旧高旧領取調帳三六六石余。寛文八年(一六六八)検地によると、村高四六三石余、田三〇町九反余・畑三町余・屋敷一町余(神戸町史)。安永四年(一七七五)から三ヵ年を限って定められた俵数につき一ヵ年四五両の赤坂あかさか(現大垣市)の赤土運上を大垣藩に納めることになっていたが、同四年の当村七兵衛の願出によって一ヵ年のみ六〇〇俵四五両と改められている(「赤土運上届」国立史料館蔵)


更屋敷村
さらやしきむら

[現在地名]糸貫町七五三しめ

中野なかの村の北に位置し、根尾ねお川と糸貫川に挟まれた緩傾扇状地平野に立地。もとは小弾正こだんじよう村の枝村であったが、元禄年間(一六八八―一七〇四)までには分離独立した。元禄郷帳に村名がみえ、村高二八六石余。幕府領・土岐出羽守領・同大膳領の相給。うち幕府領分は明和七年(一七七〇)大垣藩預となり、幕末に至った。天保九年(一八三八)の村明細帳によれば、村高二八六石余、うち幕府領大垣藩預領の高一七八石余・反別一四町三反余、郷屋敷分を引き残高一七八石余、うち田一五九石余・畑二〇石余・屋敷高五反余。


更屋敷村
さらやしきむら

[現在地名]一宮市更屋敷

北は木曾川堤に接し、東は光明寺こうみようじ村、西は曾根そね村に接する。川沿いながら、飛保曼陀羅ひぼまんだら(現江南市)蔵の天文一六年(一五四七)正月の書状に六〇〇文サラ屋敷弥七郎・左衛門三郎とみえる。天保村絵図による概高一五二石余、うち一四三石余は藩士三人の入会給知、蔵入は新田高八石余と見取場一町二反余であり、田二町三反余・畑一一町三反余と宮田みやだ用水に依存する畑がちの村である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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