有島農場(読み)ありしまのうじよう

日本歴史地名大系 「有島農場」の解説

有島農場
ありしまのうじよう

狩太かりぶと村に置かれた明治・大正期の農場。創設者の有島武(鹿児島県出身、大蔵省官吏、実業家)北海道開拓に着目した明治三〇年(一八九七)頃、胆振国虻田あぶた郡の真狩太まつかりぶと原野では区画割を終え、富山県の田村惟昌、函館の松岡陸三や、近藤兼平などから貸下げ願が提出され(「北海の殖産」第七二号)、有島氏の出願余地はなかった。北海道開拓の情報を把握していた武は息子の武郎とも協議し、同年一〇月二八日に貸付書類を提出、一一月二日に富山県田村組の貸下げ予定地九六万六千四四六坪の貸下げ許可を得た(ニセコ町百年史)。隣接する松岡まつおか農場の二・三倍という広さで、資金面に不安があった武は「或ハ中止ノ場合ニ至ルヤモ」とその日記に残している(同書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「有島農場」の意味・わかりやすい解説

有島農場
ありしまのうじょう

北海道後志(しりべし)総合振興局管内のニセコ町(旧狩太(かりぶと)村)に白樺(しらかば)派の有島武郎(たけお)が所有していた農場で、有島の農場解放で有名。面積約450ヘクタール、小作約70戸であった。1897年(明治30)父武(たけし)が「北海道国有未開地処分法」により100万坪(約330ヘクタール)の貸し下げを受けたがいったん返却。1899年、女婿山本直良(なおよし)名義で再出願、約90万8000坪の貸し下げを受け、小作人を募集して開墾した。1908年(明治41)武郎に名義変更、翌1909年国有未開地の開墾成功の検査である成耕検査に合格(第一農場)。さらに1914年(大正3)と1916年に約94町歩(約93ヘクタール)を買収(第二農場)した。有島は、小作人の悲惨な生活、クロポトキンの影響などによって、早くから農場解放を考えていたといわれるが、1922年7月、農場を小作人の共有という形で解放、旧小作人は「有限責任狩太共生農団信用利用組合」を組織して農場を運営した。1949年(昭和24)の農地解放により、農場は個人の私有地となった。現地には1924年(大正13)建立の「農場解放記念碑」、1978年建設の「有島記念館」がある。

[船津 功]

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世界大百科事典(旧版)内の有島農場の言及

【コミューン】より

…障害者施設,大倭安宿苑(おおやまとあすかえん)を併設。 狩太共生農団(かりぶときようせいのうだん)作家の有島武郎は父の武から相続した北海道虻田郡狩太村(現,ニセコ町)の有島農場(農地約450町歩)を,〈私有財産の否認〉の考えから1922年7月18日に農場小作人全員に無償譲渡した。ただし,再び資本家の手に渡るのを防止するために,産業組合とすることを条件とした。…

【ニセコ[町]】より

…1897年の国有未開地処分法の施行後,官僚,軍人,実業家などの農場が相ついで出現して,尻別川の両岸は不在地主の多い畑作小作地帯となった。大農場の一つ有島農場を継いだ作家有島武郎は1922年に農場を無償で開放し,没後に農民組織である狩太共生農団が生まれ,第2次大戦後の農地改革まで続いた。主産業は畑作中心の農業で,ジャガイモを主にトウモロコシ,豆類などを産する。…

※「有島農場」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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