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有島武郎 ありしまたけお

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

有島武郎
ありしまたけお

[生]1878.3.4. 東京
[没]1923.6.9. 軽井沢
小説家,評論家。父が横浜税関長となったため幼時から文明開化の気風になじみ,ミッション・スクールに通って西洋思想を身につけた。学習院を経て札幌農学校に入り (1896) ,のちハバフォード大学,ハーバード大学大学院に学んだ (1903~06) 。

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デジタル大辞泉の解説

ありしま‐たけお〔‐たけを〕【有島武郎】

[1878~1923]小説家。東京の生まれ。有島生馬(いくま)里見弴(さとみとん)の兄。「白樺」の創刊に参加。大正12年(1923)「宣言一つ」に自己の立場を表明したのち、愛人と情死。作「或る女」「生れ出づる悩み」「カインの末裔」「惜みなく愛は奪ふ」など。

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百科事典マイペディアの解説

有島武郎【ありしまたけお】

大正期の小説家。東京生れ。有島生馬里見【とん】の兄。札幌農学校在学中キリスト教の感化を受け,卒業後渡米し社会主義に傾き,ホイットマンらの影響を受けた。帰国後1910年《白樺》創刊に参加。
→関連項目白樺派

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

有島武郎 ありしま-たけお

1878-1923 大正時代の小説家。
明治11年3月4日生まれ。有島武の長男。有島生馬,里見弴(とん)の兄。札幌農学校にまなび,キリスト教に入信。アメリカに留学し,ホイットマンなどの影響をうけた。棄教して明治43年「白樺」にくわわり,「カインの末裔」「生れ出づる悩み」「或る女」などを発表。社会運動への関心から北海道の農場を解放した。大正12年6月9日軽井沢で波多野秋子と心中。46歳。東京出身。
【格言など】愛の表現は惜しみなく与えるだろう。しかし愛の本体は惜しみなく奪うものだ(「生れ出づる悩み」)

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江戸・東京人物辞典の解説

有島武郎

1878〜1923(明治11年〜大正12年)【小説家】白樺派の代表的作家。 「惜しみなく愛は奪う」の名言を残して、自らも人妻と心中。大正期の小説家。東京都出身。札幌農学校卒。農学校では内村鑑三の感化でキリスト教に入信。卒業後アメリカに留学した後、ヨーロッパ巡歴をへて帰国。母校の英語教師を1915年(大正4)まで務めた後上京した。白樺派の創立に参画し、1916年妻と父親が死去すると本格的作家活動に入った。社会主義に共鳴し、北海道有島農場を小作人へ解放した。最晩年は虚無的となり、人妻の婦人記者波多野秋子と軽井沢で心中。代表作「カインの末裔」「生れ出づる悩み」「或る女」「惜みなく愛は奪ふ」。

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世界大百科事典 第2版の解説

ありしまたけお【有島武郎】

1878‐1923(明治11‐大正12)
大正期の作家。東京生れ。父は大蔵省の官吏で,弟に画家,作家の有島生馬,作家の里見弴(とん)がいる。学習院中等科を経て1901年札幌農学校卒。農学校在学中,キリスト教に入る。尊敬したキリスト者は内村鑑三。03年渡米,ハバフォード大学大学院,ハーバード大学に学ぶ。在米中信仰に深い懐疑を抱き,アナーキズムに共鳴,またホイットマンゴーリキーイプセンらの文学を耽読した。07年帰国,母校の教師となる。10年《白樺》に同人として参加,《或る女のグリンプス》(1911‐13)を連載し,他に《かんかん虫》《お末の死》などを発表した。

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大辞林 第三版の解説

ありしまたけお【有島武郎】

1878~1923) 小説家・評論家。東京生まれ。有島生馬・里見弴の兄。札幌農学校在学中、内村鑑三を知る。「白樺」同人。人道主義文学の代表的作家として活躍。生活改造をめざして私有農場を解放、共生農園を建設。のち婦人記者と心中。評論「惜みなく愛は奪ふ」「宣言一つ」、小説「カインの末裔」「生れ出づる悩み」「或る女」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

有島武郎
ありしまたけお
(1878―1923)

小説家。明治11年3月4日、大蔵省官吏有島武の長男として東京に生まれる。画家有島生馬(いくま)、小説家里見(とん)の兄。両親の期待を負って、儒教的な教育と西洋風の教育のなかで育つ。学習院初・中等科に学び、農業革新の夢を抱いて、新渡戸稲造(にとべいなぞう)の縁故で札幌農学校(北海道大学の前身)に入学。友人森本厚吉の感化などからキリスト教に入信、内省的な傾向を深める。卒業後、1903年(明治36)に渡米、ハバフォード大学、ハーバード大学に留学。日露戦争に際会し、キリスト教信仰に疑いをもち、文学に自己表現の可能性をみいだすようになる。港湾労働者を描いた処女作『かんかん虫』(のちに改稿され、1910.10『白樺(しらかば)』に掲載)の初稿はこの時期に成立。またアメリカ滞在中の精神的彷徨(ほうこう)に取材した作品に『迷路』(1918.6)がある。その後、弟生馬と欧州美術を歴訪し、イギリスに渡ってクロポトキンと会見したりして1907年帰朝。母校(当時は東北帝国大学農科大学)で英語を教えるかたわら、北欧文学や社会主義の文献などを耽読(たんどく)した。
 1910年(明治43)4月、武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)、志賀直哉(しがなおや)らと『白樺』創刊に参加、年長同人として重んぜられる。霊肉二元対立とその止揚を目ざす思想を表明した『二つの道』(1910.5)や、『或(あ)る女のグリンプス』(1911.1~13.3)、『宣言』(1915.7~12)などを連載する。1914年(大正3)妻安子の病気療養のため上京、翌1915年農科大学を辞職。その結果作家生活に入り、1916年に妻、父を相次いで亡くしたことを転機に、主体的に創作に取り組むようになる。戯曲『死と其(その)前後』(1917.5)に始まり、短編『平凡人の手紙』(1917.7)、『カインの末裔(まつえい)』(1917.7)、『実験室』(1917.9)、『クラゝの出家』(1917.9)などを矢つぎばやに商業誌に発表し、人道主義的な傾向にあった文壇の視聴を集め、一躍流行作家となる。さらにこの年(大正6)『有島武郎著作集』として、創作集を新潮社から刊行、のちに叢文閣(そうぶんかく)に移って生前に15冊、死後1冊を数える。この前後数年が創作力のもっとも充実した時期で、『小さき者へ』(1918.1)、『生れ出づる悩み』(1918.3~4)、『石にひしがれた雑草』(1918.4)など書かれ、さらに年来の課題であった代表作『或る女』前後編を完成する(1919)。そして、作品の思想的源泉でもある、独自な生命哲学をまとめた『惜みなく愛は奪ふ』(1920)を刊行。しかし、このころより創作力不振に陥り、明治30年代の青春を描き、創作方法上に新局面をみせた長編『星座』(1922)もついに未完に終わる。1922年、当時の社会主義的な風潮に対して、知識人のあり方を問う『宣言一つ』を発表、さらに資本家としての自己改造を目的に、北海道の有島農場を解放する。この時期、『一房(ひとふさ)の葡萄(ぶどう)』(1922)などの童話や、『酒狂』(1923.1)、『断橋』(1923.3)、『親子』(1923.5)などの短編や一幕物を個人雑誌『泉』に発表したが、それでも創作力は回復せず、虚無的な自己認識を深めていった。
 大正12年6月9日、軽井沢の別荘浄月庵で人妻波多野秋子と心中、その生涯を閉じる。[山田俊治]
『『有島武郎全集』15巻・別巻1(1979~1988・筑摩書房) ▽本多秋五著『「白樺」派の文学』(1954・講談社) ▽山田昭夫著『有島武郎』(1966・明治書院) ▽安川定男著『有島武郎論』(1967・明治書院) ▽瀬沼茂樹・本多秋五編『有島武郎研究』(1972・右文書院) ▽有島武郎研究会編『有島武郎研究叢書』第1~10集(1995~1996・右文書院)』

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世界大百科事典内の有島武郎の言及

【或る女】より

有島武郎の長編小説。前編は1911‐13年(明治44‐大正2)《白樺》に連載した《或る女のグリンプス》を19年改稿したもの,後編は19年書き下ろした。…

【カインの末裔】より

有島武郎の短編小説。《新小説》1917年(大正6)7月号に発表。…

【コミューン】より

…障害者施設,大倭安宿苑(おおやまとあすかえん)を併設。 狩太共生農団(かりぶときようせいのうだん)作家の有島武郎は父の武から相続した北海道虻田郡狩太村(現,ニセコ町)の有島農場(農地約450町歩)を,〈私有財産の否認〉の考えから1922年7月18日に農場小作人全員に無償譲渡した。ただし,再び資本家の手に渡るのを防止するために,産業組合とすることを条件とした。…

【児童文学】より

…その主流はロマンティックな未明童話を頂点とする物語性のゆたかなメルヘンで,子どもの現実生活をリアルに描いた作品は少なかった。代表的な作家には,秋田雨雀,芥川竜之介,有島武郎,宇野浩二,佐藤春夫,豊島与志雄たちがいる。 大正期には児童中心主義の児童観に応ずる童心文学の主張が支配的で,それが典型的に現れたのは北原白秋,西条八十,野口雨情に代表される童謡においてであるが,この近代的詩形が日本の伝承童謡の復興を詩の精神としたことは注目すべきである。…

【ニセコ[町]】より

…1897年の国有未開地処分法の施行後,官僚,軍人,実業家などの農場が相ついで出現して,尻別川の両岸は不在地主の多い畑作小作地帯となった。大農場の一つ有島農場を継いだ作家有島武郎は1922年に農場を無償で開放し,没後に農民組織である狩太共生農団が生まれ,第2次大戦後の農地改革まで続いた。主産業は畑作中心の農業で,ジャガイモを主にトウモロコシ,豆類などを産する。…

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