有馬直純(読み)ありま・なおずみ

朝日日本歴史人物事典 「有馬直純」の解説

有馬直純

没年:寛永18.4.25(1641.6.3)
生年:天正14(1586)
江戸初期の大名。父はキリシタン大名有馬晴信,母は山田兵部純規の娘。肥前国有馬(長崎県)生まれ。幼名大吉,通称左衛門佐,洗礼名ミゲル。慶長5(1600)年関ケ原の戦では,加藤清正に従って小西行長の宇土城を攻撃。徳川家康に仕え,同15年妻マルタ(小西行長の姪)を離縁して家康養女国姫(実父本多忠政)と再婚,キリスト教も棄教した。同17年父晴信が岡本大八事件によって甲州配流後,有馬領を継ぐ。直純は父と疎遠であったといわれ,逆にこれが有馬家存続に幸いした。同19年加増されて日向国県(のちの延岡)領5万3000石に移るが,キリシタン取り締まりの方針をとっていたため,多くの家臣は有馬に残った。寛永14(1637)年島原の乱では旧領有馬に出陣,皮肉にも原城中の旧臣と戦った。<参考文献>『有馬晴信記』(『続群書類従』23輯上),L.パジェス著,吉田小五郎訳『日本切支丹宗門史

(福田千鶴)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「有馬直純」の意味・わかりやすい解説

有馬直純 (ありまなおずみ)
生没年:1586-1641(天正14-寛永18)

江戸初期の日向国県(あがた)(延岡)藩主。晴信の子。幼名大吉。室は小西行長の姪であったが,徳川家康の養女国姫を配せられ離別。1612年(慶長17)父晴信が岡本大八事件で配流されたが,徳川家との姻戚関係で本領安堵。のちキリシタン取締りを強化し,殉教者を多く出す。14年日向国県5万3000石に転封。そのとき,家臣を多く残したが,島原の乱で旧領民を攻めた。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「有馬直純」の解説

有馬直純 ありま-なおずみ

1586-1641 江戸時代前期の大名。
天正(てんしょう)14年生まれ。有馬晴信の子。徳川家康の養女と結婚。父が岡本大八事件で甲斐(かい)に流罪になると肥前日之江藩(長崎県)藩主をつぐが,慶長19年転封(てんぽう)により日向(ひゅうが)(宮崎県)県(あがた)藩主有馬家初代となった。5万3000石。幼時洗礼をうけたが幕府の禁令にしたがい棄教,旧領でおこった島原の乱で功をたてる。寛永18年4月25日死去。56歳。洗礼名はミゲル。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の有馬直純の言及

【有馬氏】より

…(1)江戸時代,越前国丸岡藩主。肥前国高来郡有馬荘に起こる。藤原純友の後裔と称するが,肥前藤津荘荘司平清澄・直澄の子孫とみられる。7代経澄のとき,鎌倉幕府から肥前国有馬荘の地頭職をえて有馬姓を称する。南北朝期は菊池・少弐氏にくみする。室町期の明応年間(1492‐1501)から肥前守貴純の名が聞こえ出し,その孫賢純のころ肥前6郡を制し,将軍の諱(いみな)をえて晴純と称する。晴信のとき,竜造寺氏の南進のため島津氏と結ぶが,1587年(天正15)豊臣秀吉の九州統一に服属し,高来郡4万石を領する。…

【延岡[市]】より

…江戸時代延岡藩主はしばしばかわり,1747年(延享4)磐城の平より内藤氏が入って廃藩置県にいたった。城下の整備はまず高橋氏が五ヶ瀬川,大瀬川河口の三角州を南町,中町,北町の3町に町割りすることで始まり,ついで有馬直純が新たに芝町,紺屋町,博労町をつくった。このとき田の字形の旧町に丁の字形の新町が加わって城下の町並みは〈町〉の字を形成したが,その後有馬康純が大瀬川原に柳沢(やんざ)町を加設したことで町数は計7町となった。…

※「有馬直純」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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