安土桃山時代のキリシタン大名。肥前国(長崎県)高来(たかく)郡日野江(ひのえ)城(原(はら)城)主。有馬義貞(よしさだ)(1521―1576)の次男。初名を鎮純(しげずみ)、のち鎮貴(しげたか)、久貴、久賢(ひさかた)、正純(まさずみ)と変名し、従(じゅ)五位下修理大夫(しゅりだゆう)に叙任される。1571年(元亀2)家督相続。1580年(天正8)巡察使バリニャーノから洗礼を受け、プロタジオと称す。キリスト教を非常に保護したため、教会が各所に設置され、セミナリオ(初等教育学校)が開かれた。また南蛮船が領内の口之津(くちのつ)港に入港した。1582年(天正10)ローマ教皇への少年使節として従兄弟(いとこ)の千々石ミゲル(ちぢわみげる)を派遣。また1584年龍造寺(りゅうぞうじ)氏から攻撃を受けたので、その援助をイエズス会に求め、勝利の代償として浦上(うらかみ)(長崎市)を教会に寄進した。豊臣(とよとみ)期には秀吉の九州統一に従い、高来郡4万石を安堵(あんど)されたが、浦上領は秀吉の直轄領となった。1587年の宣教師追放令に際しては、宣教師が有馬領内に難を逃れてきてコレジオ(高等教育機関)が設立され、また活字印刷機をもとに「日本イエズス会版」が刊行された。文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役では小西軍に従軍したが、関ヶ原の戦いでは、のち東軍に属して所領安堵される。1608年(慶長13)徳川家康の命でインドシナの占城(チャンパ)に渡航したが、帰途マカオで乗船員が殺害されたので、復讐(ふくしゅう)として翌1609年長崎港でポルトガル船ノッサ・セニョーラ・ダ・グラサ号(旧名、マードレ・デ・デウス号)を焼き討ちした。その功で旧領(肥前六郡)回復を図ったが、かえって本多正純(ほんだまさずみ)の家臣岡本大八の奸策(かんさく)にかかり、1612年(慶長17)所領没収。甲斐(かい)国(山梨県)に移され、同年5月6日斬首(ざんしゅ)。この事件を契機に幕府はキリシタン弾圧政策を強く打ち出した。なお、子直純(なおずみ)(1586―1641)は許され遺領を継ぎ、のち日向(ひゅうが)国県(あがた)(宮崎県延岡(のべおか)市)に転封された。
[森山恒雄 2018年3月19日]
『林銑吉著『島原半島史』(1954・南高来郡市教育会/複製・1979・国書刊行会)』▽『松田毅一著『近世初期日本関係南蛮史料の研究』(1967・風間書房)』
キリシタン大名。岡本大八事件により改易。義貞の次男。鎮純,鎮貴,修理大夫などと称する。1576年(天正4)肥前日野江城主となる。竜造寺氏に圧迫され,84年島津氏の援助でこれを破った。イエズス会の援助をも得,80年バリニャーノから受洗しプロタジオ,のちジョアンと称する。大友,大村の大名と天正遣欧使節をローマに遣わした。86年豊臣秀吉より高来郡4万石を安堵され朝鮮の役で小西行長の配下に属した。秀吉の禁教令下,多数の宣教師を領内にかくまった。関ヶ原の戦に東軍にくみして徳川家康より所領安堵され,またその命により高砂島(台湾)に派兵した。朱印船貿易に参加しマカオで家臣を殺され,1610年報復として長崎沖でポルトガル船マードレ・デ・デウス号を爆沈させた。この行賞に関し家康側近本多正純の与力岡本大八に金品を詐取され,これが露見しかつ長崎奉行長谷川藤広謀殺の企てが発覚して甲斐に流刑され死を賜った。
執筆者:五野井 隆史
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1561/67~1612.5.6
織豊期~江戸初期の武将。肥前国日野江城主義貞の子。十郎。修理大夫。1571年(元亀2)継領。洗礼名プロタジオ,のちジョアン。87年(天正15)豊臣秀吉に属したが,追放されたイエズス会士を自領にかくまい,宣教・教育・出版などの活動を許した。1609年(慶長14)朱印船貿易に参画した家臣を殺された報復としてポルトガル船を撃沈。その恩賞として旧領回復を望んだことが岡本大八事件に発展し,斬罪された。
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…(1)江戸時代,越前国丸岡藩主。肥前国高来郡有馬荘に起こる。藤原純友の後裔と称するが,肥前藤津荘荘司平清澄・直澄の子孫とみられる。7代経澄のとき,鎌倉幕府から肥前国有馬荘の地頭職をえて有馬姓を称する。南北朝期は菊池・少弐氏にくみする。室町期の明応年間(1492‐1501)から肥前守貴純の名が聞こえ出し,その孫賢純のころ肥前6郡を制し,将軍の諱(いみな)をえて晴純と称する。晴信のとき,竜造寺氏の南進のため島津氏と結ぶが,1587年(天正15)豊臣秀吉の九州統一に服属し,高来郡4万石を領する。…
…江戸初期の日向国県(あがた)(延岡)藩主。晴信の子。幼名大吉。室は小西行長の姪であったが,徳川家康の養女国姫を配せられ離別。1612年(慶長17)父晴信が岡本大八事件で配流されたが,徳川家との姻戚関係で本領安堵。のちキリシタン取締りを強化し,殉教者を多く出す。14年日向国県5万3000石に転封。そのとき,家臣を多く残したが,島原の乱で旧領民を攻めた。【森山 恒雄】…
…江戸初期,徳川家康の側近本多正純の与力でキリシタンの岡本大八(洗礼名パウロ)が,1610年1月(慶長14年12月)ポルトガル船ノッサ・セニョーラ・ダ・グラサ号(一名,マードレ・デ・デウス号)を爆沈させたキリシタン大名有馬晴信から,その恩賞斡旋にかこつけて多額の金品を詐取した事件。12年大八は下獄し晴信の長崎奉行長谷川左兵衛謀殺の企てを訴えて対決した。…
…またフランシスコ・ザビエルが50年8月平戸に立ち寄りキリスト教を布教したので,松浦,大村,有馬氏領内には多くのキリスト教信者が生まれた。とくに大村純忠や有馬晴信などは洗礼を受けてキリシタン大名となったので,領内には教会をはじめコレジヨやセミナリヨなどの教育機関が設けられ,布教の中心地となった。はじめ平戸に入港していたポルトガル船は,松浦氏が布教に便宜を与えないことを理由に,大村領横瀬浦に入港するようになったが,63年大村氏家臣団の内紛で開港後わずか2年で貿易港としての機能を停止した。…
※「有馬晴信」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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