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小西行長 こにしゆきなが

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

小西行長
こにしゆきなが

[生]?
[没]慶長5(1600).10.1. 京都
安土桃山時代の武将。キリシタン大名。和泉堺の人。隆佐の子といわれる。通称は弥九郎。受洗名はアゴスチニョ。初め宇喜多氏に仕えたが,のち豊臣秀吉に仕え,従五位下に叙し,内匠頭,摂津守となった。天正 15 (1587) 年の九州征伐,さらに翌 16年の佐々成政の失脚後,肥後半国 24万石を領し,宇土城主となった。朝鮮の出兵に際して加藤清正とともに力戦し,明との外交交渉,さらに清正や浅野幸長の蔚山 (ウルサン) 籠城戦には援軍として参加した。秀吉の死後石田三成の与党となり,慶長5 (1600) 年の関ヶ原の戦いに敗れ,六条河原で斬首された。

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百科事典マイペディアの解説

小西行長【こにしゆきなが】

安土桃山時代の武将。キリシタン大名。教名アゴスチーニョ。堺の豪商小西隆佐(りゅうさ)の子。宇喜多氏,次いで豊臣秀吉に仕え,九州征伐,肥後一揆(ひごいっき)鎮圧などの功により加藤清正と肥後を2分して24万石を領す。
→関連項目宇土[市]熊本藩沈惟敬内藤如安益田時貞李舜臣

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

小西行長 こにし-ゆきなが

?-1600 織豊時代の武将。
小西隆佐(りゅうさ)の次男。堺の豪商小西氏の一族でキリシタン大名。宇喜多直家,ついで豊臣秀吉につかえ,天正(てんしょう)16年(1588)肥後(熊本県)宇土城主となる。文禄(ぶんろく)・慶長の役で先鋒(せんぽう)をつとめる。関ケ原の戦いでは西軍に属して敗れ,慶長5年10月1日処刑された。通称は弥九郎。洗礼名はアゴスチーニョ。
【格言など】たとえいい置く儀億万あり共,いま首の座に居て白状すべきや(処刑前に,言い残すことはないかとたずねられて)

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朝日日本歴史人物事典の解説

小西行長

没年:慶長5.10.1(1600.11.6)
生年:生年不詳
安土桃山時代の武将。キリシタン大名。堺の豪商小西隆佐の次男。幼いころに受洗,霊名アグスチノ。若いころのことは不明だが,天正8(1580)年ごろより,父と共に豊臣秀吉に重用され,同11年ごろ舟奉行のひとりとなり塩飽(瀬戸内海)から堺までの船舶の監督に当たった。同15年秀吉が九州平定の帰途,伴天連追放令を発した際,五畿内を追われたオルガンティーノを自領の小豆島に保護する。同16年肥後(熊本県)南半国の領主となり,翌年天草の豪族の反乱を鎮圧。文禄の役(1592)では加藤清正らと朝鮮に出陣,朝鮮に来援した明将沈惟敬と講和に当たった。このとき講和条件について双方の食い違いのあるまま明の使者が来日したが,これは行長独自の行動ではなく,秀吉の意向を受けたという説がある(山室恭子『黄金太閤』)。結局,交渉は決裂,第2次朝鮮侵略(慶長の役)にも出兵する。秀吉の死後,朝鮮撤退。関ケ原の戦(1600)では西軍に参加,敗北して石田三成と共に京都六条河原で処刑された。

(村井早苗)

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世界大百科事典 第2版の解説

こにしゆきなが【小西行長】

?‐1600(慶長5)
安土桃山時代の武将,キリシタン大名。通称弥九郎,内匠頭・摂津守。受洗名アゴスチーニョ。代々薬種業を営んだ堺の豪商の出自で,父は小西隆佐,兄は如清。はじめ備前の宇喜多氏に仕え,のち豊臣秀吉のもとで〈塩飽(しあく)より堺に至るまでの船舶を監督〉し〈海の司令官〉とよばれる(イエズス会日本年報)。島津攻略,肥後一揆鎮圧の功により,1588年(天正16)肥後半国24万石を領し宇土城主となる。92年(文禄1)文禄の役には加藤清正とともに先陣をつとめ,釜山城などの攻撃に参加。

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大辞林 第三版の解説

こにしゆきなが【小西行長】

?~1600) 安土桃山時代の武将。通称、弥九郎。摂津守。堺の豪商小西隆佐りゆうさの子。キリシタン大名。初め宇喜多氏に仕え、のち豊臣秀吉の臣。肥後半国二四万石領主。文禄・慶長の役の先鋒主将。関ヶ原の戦いで西軍について敗れ、刑死。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

小西行長
こにしゆきなが
(?―1600)

キリシタンの戦国大名。素性は、その父隆佐(立佐)(りゅうさ)とともに明らかでないが、隆佐の次男として生まれ、早くキリシタンの洗礼を受けたらしい。その教名が「アゴスチーニョ」(アウグスチヌス)であり、当初弥九郎(やくろう)のちに摂津守(せっつのかみ)、通常「ツノカミ」と称せられたことは内外の史料が一致している。1585年(天正13)秀吉の紀州征伐において水軍の長として活躍し、まもなく小豆(しょうど)島、塩飽(しわく)諸島、室津(むろつ)の支配者となる。87年九州征伐に参戦、バテレン追放令に際しても高山右近(うこん)のように処罰されなかったが、88年には肥後(熊本県)南半に移封され、宇土(うと)城に鎮した。翌年、天草の五人衆が反逆したのを鎮圧、以後秀吉が没するまで文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役に主役をつとめる。92年(文禄1)、第一軍の将として朝鮮の釜山(ふざん)に渡り、ソウルを陥れ、さらに平壌まで占拠したが、明(みん)国の征服を不可能と考え、早くより明の沈惟敬(しんいけい)と交渉してこの戦いを講和に持ち込もうとした。しかしその策謀が功を奏せず、慶長の役となり、ふたたび朝鮮南部に出陣した。秀吉の没後、石田三成(みつなり)らとともに徳川家康らに対抗したが、関ヶ原合戦に敗れ、慶長5年10月1日、京都六条河原において斬首(ざんしゅ)された。[松田毅一]
『松田毅一著「小西立佐一族」(『近世初期日本関係南蛮史料の研究』所収・1967・風間書房) ▽フロイス著、松田毅一・川崎桃太訳『フロイス 日本史』全12巻(1978~80・中央公論社)』

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世界大百科事典内の小西行長の言及

【肥後国】より

…そしてその制圧によって肥後の近世化は一気に推進されることになる。【工藤 敬一】
【近世】

[所領配置]
 1588年佐々成政が国衆一揆の責を負って改易されたあと,肥後は上使衆によって検地(太閤検地)が行われ,ついで北部半国(9郡19万5000石)に加藤清正,南部半国(4郡14万6300石)に小西行長が封ぜられ,旧領を安堵された球磨郡(2万2100石)の相良長毎(ながつね)と3人で肥後国を三分することとなった。加藤清正は隈本(くまもと)城に入ったが,領内は国衆一揆で土豪層が排除されており,静謐(せいひつ)であった。…

【文禄・慶長の役】より

…当時の朝鮮の正規軍は弱体であったが,慶尚道,全羅道を中心とする民衆の義兵組織や,圧倒的な明の援軍の到着によって補給路が絶たれ,渡海した兵員も各地に分散されたうえ一戦ごとに死傷者を出して手薄となっていた。この間,小西行長沈惟敬(しんいけい)(明の遊撃将軍)との間ですすめられていた和議交渉も,戦局の推移につれて二転,三転した。日本側の条件は出陣諸将の間の思惑の相違からまとまらず,秀吉自身も,当時の国際関係(明帝国を中心とする冊封体制)についての認識に欠けるところがあった。…

※「小西行長」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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