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服部持法 はっとり じほう

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

服部持法 はっとり-じほう

?-? 鎌倉-南北朝時代の武将。
伊賀(いが)(三重県)高畠(たかはた)村の有力御家人。嘉暦(かりゃく)2年(1327)に六波羅探題から黒田荘の悪党鎮圧を命じられるが,したがわなかった。建武(けんむ)3=延元元年ごろから東大寺領の諸荘園を侵略し,北伊賀悪党のひとつ服部党を形成した。通称は高畠右衛門太郎。法名は別に道秀。

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朝日日本歴史人物事典の解説

服部持法

生年:生没年不詳
鎌倉末・南北朝期の北伊賀地方の悪党張本。高畠右衛門太郎ともいう。のちに名を道秀と改める。伊賀国阿拝郡服部郷の高畠村(三重県上野市)に居住する有力な御家人服部氏の惣領であった。嘉暦・元徳のころ(1326~30)南伊賀地方の悪党討伐の命が六波羅探題よりしばしば持法に下されたが,終始消極的であり,悪党に手ごころを加えつづけた。そして建武3(1336)年ごろには,北伊賀の東大寺領荘々を押領し,自らが「当国名誉大悪党張本」と呼ばれるようになった。悪党小武士を組織しながら国人領主としての力を強めた人物である。<参考文献>小泉宜石『悪党』

(新井孝重)

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

服部持法
はっとりじほう

生没年不詳。実名未詳。鎌倉・南北朝期の伊賀(いが)国御家人(ごけにん)。通称右衛門太郎入道。のち高畠姓を称し、また法名も道秀と改む。服部氏は古代以来の北伊賀の有力土豪であったが、在地領主としての成長に伴う荘園(しょうえん)領主東大寺(とうだいじ)との抗争や一族内の争いから、一族の一部が悪党と名指される。持法は六波羅探題(ろくはらたんだい)から1327年(嘉暦2)黒田荘悪党の追捕(ついぶ)を命ぜられるが言を左右にして遵行(じゅんぎょう)せず、東大寺から「悪党引汲(いんきゅう)」と、悪党への加担を非難されるありさまだった。南北朝期に入ると、1336年(延元1・建武3)ころから、持法は北伊賀の東大寺領諸荘を侵し、今度は「当国名誉の大悪党張本(ちょうほん)」と名指されるようになる。この時期の北伊賀悪党は、ときには守護方の軍勢と戦い、ときには守護と結託するなどし、伊賀国人一揆(こくじんいっき)へと成長する母体となってゆく。[千々和到]
『石母田正著『中世的世界の形成』(1957・東京大学出版会/岩波文庫) ▽小泉宜右著『悪党』(教育社歴史新書)』

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世界大百科事典内の服部持法の言及

【伊賀国】より

…東大寺は六波羅探題に悪党鎮圧の使節の発遣を要請し,六波羅は守護代や有力御家人である服部氏や柘植氏を差し向けようとするが,鎮圧できないまま南北朝内乱の時代を迎える。 鎌倉末期に名張悪党の鎮圧に差し向けられた北伊賀の有力御家人服部持法(じほう)は,南北朝時代になると逆に東大寺領を押領する悪党として守護に追捕される立場となる。北伊賀の悪党には柘植新左衛門尉,山田十郎左衛門,河合新左衛門尉,長田中務丞,滝孫四郎保氏,高山十郎保光など北伊賀の在地領主層が名を連ねる。…

※「服部持法」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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