日本大百科全書(ニッポニカ) 「服部持法」の意味・わかりやすい解説
服部持法
はっとりじほう
生没年不詳。実名未詳。鎌倉・南北朝期の伊賀(いが)国御家人(ごけにん)。通称右衛門太郎入道。のち高畠姓を称し、また法名も道秀と改む。服部氏は古代以来の北伊賀の有力土豪であったが、在地領主としての成長に伴う荘園(しょうえん)領主東大寺(とうだいじ)との抗争や一族内の争いから、一族の一部が悪党と名指される。持法は六波羅探題(ろくはらたんだい)から1327年(嘉暦2)黒田荘悪党の追捕(ついぶ)を命ぜられるが言を左右にして遵行(じゅんぎょう)せず、東大寺から「悪党引汲(いんきゅう)」と、悪党への加担を非難されるありさまだった。南北朝期に入ると、1336年(延元1・建武3)ころから、持法は北伊賀の東大寺領諸荘を侵し、今度は「当国名誉の大悪党張本(ちょうほん)」と名指されるようになる。この時期の北伊賀悪党は、ときには守護方の軍勢と戦い、ときには守護と結託するなどし、伊賀国人一揆(こくじんいっき)へと成長する母体となってゆく。
[千々和到]
『石母田正著『中世的世界の形成』(1957・東京大学出版会/岩波文庫)』▽『小泉宜右著『悪党』(教育社歴史新書)』