六波羅探題(読み)ろくはらたんだい

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

六波羅探題
ろくはらたんだい

鎌倉幕府の職名承久の乱後,幕府は北条時房,泰時を京都に常駐させ,幕府の出張機関として公家方の行動を監視させるとともに,洛中警固と西国御家人の統制を任務とした。以後北条氏一族中の有力者が2名,ときには1名が交代で任命され,北方,南方と呼ばれた。六波羅探題は訴訟機関としての機能を有し,評定衆引付衆も設けられた。管轄地域は,東海道は尾張より西,北陸道は越前より西と定められていたが,時代が下るに従って変更が加えられ,永仁年間 (1293~99) 鎮西探題 (→鎮西奉行 ) が新設されてからは,九州は管轄から除外された。鎌倉幕府の滅亡の際,元弘3=正慶2 (1333) 年5月足利尊氏の攻撃を受け,探題北条仲時が近江に逃れて自殺,滅亡した。

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百科事典マイペディアの解説

六波羅探題【ろくはらたんだい】

鎌倉幕府の職名。京都の六波羅に所在した。幕府は初め京都守護を置き朝幕間の折衝に当たらせたが,承久の乱の際にこの職に替えた。北条氏一門から選任された2名よりなり,朝廷の監視と京都市中の警備を行い,西国の政務や裁判権をも掌握。元弘の乱のなかで1333年廃滅。→探題
→関連項目大友貞宗篝屋金沢貞顕京都大番役京都守護施行状二月騒動北条時房北条泰時御教書山城国六波羅

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世界大百科事典 第2版の解説

ろくはらたんだい【六波羅探題】

鎌倉幕府が京都の六波羅に置いた機関,およびその長。鎌倉末期,1319‐22年(元応1‐元亨2)ころ成立した《沙汰未練書》に〈探題とは,関東は両所,京都には六波羅殿を云ふ〉とあるのが六波羅探題の呼称の初見であり,通常は単に〈六波羅〉ということが多かった。1185年(文治1)以来幕府は京都守護を置き,洛中の警備や京・鎌倉の連絡に当たらせた。しかし1221年(承久3)後鳥羽上皇が討幕の兵を挙げ,承久の乱が起こると,京都守護の一人大江親広は招かれて上皇方に加わり,今一人の伊賀光季は上皇方に討たれた。

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大辞林 第三版の解説

ろくはらたんだい【六波羅探題】

鎌倉幕府の職名。承久の乱後、京都の政情を監察しかつ治安を維持するために設置した、政務・軍事を統轄する執政官。南北二名を定員とし、西国諸国の訴訟を聴断するとともに、有事の際は在京人をはじめとする京都近国の御家人を指揮する権限が与えられていた。六波羅守護。六波羅殿。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

六波羅探題
ろくはらたんだい

鎌倉幕府が京都の六波羅に設置した機関、およびその長官。ただし探題という称呼は南北朝時代以後のもので、鎌倉時代には単に六波羅、六波羅守護などとよんだ。1185年(文治1)以来、幕府は京都守護を置いたが、1221年(承久3)の承久(じょうきゅう)の乱の際、後鳥羽(ごとば)上皇に滅ぼされた。この乱にあたり、幕府軍を率いて上洛(じょうらく)した北条泰時(やすとき)・時房(ときふさ)は、そのまま六波羅の北・南の居館に駐留し、乱後の処理にあたった。これが六波羅探題の起源である。その後も北・南各1名の探題が北条氏の一門から選任され、これを六波羅北方(北殿)、同南方(南殿)とよび、幕府の執権(しっけん)、連署(れんしょ)に次ぐ重職であった。しかし北と南とでは、北方のほうが上席であり、南方にはしばしば欠員があった。探題の職務は、第一は朝廷との交渉で、これには朝廷側の関東申次(もうしつぎ)である西園寺(さいおんじ)氏を介することが多かった。第二は京都をはじめ近国の治安維持で、これには探題の被官が検断頭人(けんだんとうにん)としてあたり、御家人(ごけにん)を統率した。第三が裁判で、六波羅評定衆(ひょうじょうしゅう)、同引付衆(ひきつけしゅう)らが担当したが、その職員には、幕府の評定衆をはじめとする事務官僚の上洛したものが多い。これら六波羅探題の諸機関は徐々に整備が進められ、幕府の機構に準ずるものとなった。裁判の管轄区域は、尾張(おわり)(のち三河(みかわ))、加賀(かが)以西で、鎮西(ちんぜい)探題の成立後は九州が管轄から離れた。六波羅の裁判権はしだいに強化されていったが、重要事項については鎌倉末に至るまで、幕府が裁判権を握っていた。1333年(元弘3・正慶2)後醍醐(ごだいご)天皇方の千種忠顕(ちぐさただあき)、赤松則村(あかまつのりむら)、足利高(あしかがたか)(尊)氏(うじ)らが六波羅を攻撃、探題北条仲時(なかとき)は持明院統(じみょういんとう)の後伏見(ごふしみ)・花園(はなぞの)両上皇、光厳(こうごん)天皇を奉じて逃走したが、近江(おうみ)で敗死し、ついに六波羅探題は滅亡した。[上横手雅敬]

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世界大百科事典内の六波羅探題の言及

【検断(撿断)】より

…例外として,九州諸国の守護は最終処断・刑事裁判権を有する。六波羅探題も鎌倉末期には管轄する美濃・尾張以西(九州を除く)について検断方で刑事裁判を行うとともに,在京御家人・大番衆を指揮して京都の治安維持に当たった。なお鎌倉市中では政所も庶民の軽い犯科について検断権を有するが,侍所との関係は不明確である。…

【検断沙汰】より

… 検断沙汰を扱う機関は関東では侍所で,訴人が訴状を侍所へ提出すると,侍所頭人が銘を加えて(訴状の端裏に年月日と訴人名を記す)担当奉行に送る。京都では六波羅探題(九州を除き,美濃・尾張以西を管轄する)の検断方があたり,検断方頭人が銘を加えて奉行に送る。九州では守護が扱う。…

【在京人】より

…鎌倉時代,西国に所領をもつ御家人のうち選ばれて六波羅探題に奉公したものをさす。京都に滞在する在京御家人には京都大番役を務めるためたまたま在京しているものをはじめとして,さまざまな御家人がいたが,在京人はこのうち六波羅探題に常時奉公したもので,そのことによって大番役を免除され,かわりに京都の辻々に置かれた篝屋(かがりや)の警固役を負担した。…

【承久の乱】より

…これによって幕府は,今まで支配力の弱かった西国にもより深く権力を浸透させることが可能になった。また京都に進軍した泰時・時房はそのまま六波羅にとどまり,朝廷の監視や洛中警固,西国御家人の統制などに携わることになった(六波羅探題の創設)。 総じて幕府の勢力は朝廷をしのぎ,内にあっては執権政治の確立を促したが,他面,貴族・社寺一般に対する幕府の政策は寛容・温微であり,彼らの荘園領主としての地位は,ほとんど打撃を被ることなく保障された。…

【探題】より

…もともとは前記の仏教用語に発するもので,その論題の判定機能のゆえに幕府の裁判担当者の職名に転じたとみなされている。鎌倉幕府では東国の執権・連署が探題と呼ばれ,また西国・九州を単位としてそれぞれ六波羅探題・鎮西探題が置かれたが,その職名は通称であって,正式の職名ではなかったようである。室町幕府では幕府や関東府の管領・執事が探題と呼ばれた例はなく,それ以外の広い地域の管領権を有する職についてのみ探題と呼ばれた。…

【北条義時】より

…21年後鳥羽上皇は義時追討の宣旨を出して兵を挙げ,承久の乱がおこった。義時は子の泰時,弟の時房らを大将軍とする大軍を送り,京都を占領し,上皇を隠岐に流し,泰時・時房を六波羅探題として都にとどめ,朝廷との交渉,京都の警備,西国の政務などに当たらせた。また上皇方についた貴族・武士の所領3000余ヵ所を没収し,戦功のあった武士をそれらの土地の地頭に任命した。…

【山城国】より

…これ以降,承久の乱(1221)までは北条時政,平賀朝雅,伊賀光季が京都守護として山城国の支配にあたったが,鎌倉幕府の山城・京都への支配力は十分に浸透していなかった。そこで承久の乱後は,北条氏の一族が六波羅探題(ろくはらたんだい)として京都に派遣されることになった。六波羅探題は洛中の警固と西国(さいごく)の訴訟を所管した。…

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