鎌倉幕府が京都の六波羅に置いた機関,およびその長。鎌倉末期,1319-22年(元応1-元亨2)ころ成立した《沙汰未練書》に〈探題とは,関東は両所,京都には六波羅殿を云ふ〉とあるのが六波羅探題の呼称の初見であり,通常は単に〈六波羅〉ということが多かった。1185年(文治1)以来幕府は京都守護を置き,洛中の警備や京・鎌倉の連絡に当たらせた。しかし1221年(承久3)後鳥羽上皇が討幕の兵を挙げ,承久の乱が起こると,京都守護の一人大江親広は招かれて上皇方に加わり,今一人の伊賀光季は上皇方に討たれた。この乱に当たり,幕府軍を率いて上洛した北条泰時とその叔父時房は,そのまま都にとどまり,六波羅の北・南の館に駐留し,乱後の処理に当たることになった。これが六波羅探題の起源である。その後も北・南各1名の探題が北条氏の一門から選任され,これを六波羅北方(北殿),六波羅南方(南殿)とよんだ。両者の中では北方が上席であり,南方にはしばしば欠員があった。南方,北方を歴任した人物は3名ある。北条兼時は1284年(弘安7)12月から87年8月まで南方,93年(永仁1)正月まで北方,北条時敦は1310年(延慶3)7月から15年(正和4)6月まで南方,20年(元応2)5月まで北方に在職した。特異なのは金沢(かねさわ)貞顕の場合である。1302年(乾元1)7月から08年11月まで南方の任にあった貞顕はいったん鎌倉に帰った後,10年6月北方として上洛し,13年11月まで在任したが,再度の六波羅勤務には不満であったという。
六波羅探題の所在地は,北方が五条末(現在の松原通)から六条坊門末(現在の五条通),南方が六条坊門末から六条末(現在の正面通)にわたり,いずれも大和大路以東に位置していた。六波羅にはかつて平氏の邸館があったが,のちその地は源頼朝に与えられ,頼朝は平頼盛邸跡に新邸を造り,1190年(建久1)の上洛の際には宿所とした。鎌倉に帰るに当たり,頼朝は六波羅新邸の留守を一条高能に命じた。しかしこの頼朝邸は1203年(建仁3)火災で焼失し,ついに再建されなかった。六波羅探題はこの跡地に建てられたものと思われる。
探題の職は執権・連署に次ぐ重職であり,泰時,長時,宗宣,基時,貞顕らの執権はいずれも六波羅を経験しているが,北条氏一門の家督,あるいはその予定者で六波羅探題となったのは,初期の泰時・時氏父子のみである。探題の職務としては,まず朝廷との交渉があり,これには関東申次(もうしつぎ)であった西園寺(さいおんじ)家を介することが多かった。次に西国の政務や裁判がある。文永(1264-75)前後から諸機関の整備が進められ,1267年までに評定衆(ひようじようしゆう),78年までに引付(ひきつけ)ができ,97年までには五方引付が成立している。所務沙汰(しよむざた),雑務沙汰は,鎌倉末まで引付が担当していたが,はじめは探題の権限が強く,引付を中心とする裁判が確立したのは1300-08年(正安2-延慶1)ころであった。検断沙汰も最初は引付で担当していたが,1313年までには検断方が成立し,探題の下に検断頭人(とうにん)が置かれた。評定衆をはじめ上級の事務職員は,幕府評定衆など幕府職員の上洛した者が多かった。検断頭人には探題の被官があてられ,探題の交代に応じて更迭されたが,事に当たって御家人を指揮する権限をもっていた。政所(まんどころ),問注所(もんちゆうじよ),侍所(さむらいどころ)などは六波羅には置かれなかった。
地域的には東海道で尾張(のち三河),東山道で飛驒(のち美濃),北陸道で越前(のち加賀)以西の西国が六波羅の管轄であった。ただし1319年5月,三河,伊勢,志摩は鎌倉幕府の政所,尾張,美濃,加賀は問注所の管轄に移されたが,一時的に過ぎず,翌20年9月には六波羅の管轄に復した。鎮西探題などが成立して後は,九州は六波羅の管轄から離れた。1259年(正元1)幕府は西国の訴訟については,特別の重要事項を除き鎌倉に注進せず,六波羅で裁決するように命じ,六波羅の権限を強め,裁判の敏速化を図った。しかし六波羅の裁判は,鎌倉幕府のそれに対して完全な独立を達成するには至らず,その後も六波羅を越えて幕府に訴える者は少なくなく,鎌倉末に至るまで重要事項は幕府で裁判が行われた。
北条氏一門の有力者たちが探題に就任しただけに,探題が幕府の政争にまき込まれた場合もあった。1264年南方に赴任した北条時輔は,68年異母弟の時宗が執権となったのを不満としていたが,72年時宗は時輔の与党名越時章,同教時らを鎌倉で討ち,さらに六波羅北方義宗に命じて時輔を討たせた(二月騒動)。84年には時宗没後の政局の混乱の中で,六波羅南方時国は突如関東下向を命ぜられ,常陸に流された上,殺された。そして1333年(元弘3)後醍醐天皇方によって六波羅は攻略され,両探題北条仲時・時益は後伏見・花園両上皇,光厳天皇を奉じて逃走したが,南方時益がまず討死し,北方仲時らも近江の番場で自害し,ここに六波羅探題は完全に滅亡した。
執筆者:上横手 雅敬
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鎌倉幕府が京都の六波羅に設置した機関、およびその長官。ただし探題という称呼は南北朝時代以後のもので、鎌倉時代には単に六波羅、六波羅守護などとよんだ。1185年(文治1)以来、幕府は京都守護を置いたが、1221年(承久3)の承久(じょうきゅう)の乱の際、後鳥羽(ごとば)上皇に滅ぼされた。この乱にあたり、幕府軍を率いて上洛(じょうらく)した北条泰時(やすとき)・時房(ときふさ)は、そのまま六波羅の北・南の居館に駐留し、乱後の処理にあたった。これが六波羅探題の起源である。その後も北・南各1名の探題が北条氏の一門から選任され、これを六波羅北方(北殿)、同南方(南殿)とよび、幕府の執権(しっけん)、連署(れんしょ)に次ぐ重職であった。しかし北と南とでは、北方のほうが上席であり、南方にはしばしば欠員があった。探題の職務は、第一は朝廷との交渉で、これには朝廷側の関東申次(もうしつぎ)である西園寺(さいおんじ)氏を介することが多かった。第二は京都をはじめ近国の治安維持で、これには探題の被官が検断頭人(けんだんとうにん)としてあたり、御家人(ごけにん)を統率した。第三が裁判で、六波羅評定衆(ひょうじょうしゅう)、同引付衆(ひきつけしゅう)らが担当したが、その職員には、幕府の評定衆をはじめとする事務官僚の上洛したものが多い。これら六波羅探題の諸機関は徐々に整備が進められ、幕府の機構に準ずるものとなった。裁判の管轄区域は、尾張(おわり)(のち三河(みかわ))、加賀(かが)以西で、鎮西(ちんぜい)探題の成立後は九州が管轄から離れた。六波羅の裁判権はしだいに強化されていったが、重要事項については鎌倉末に至るまで、幕府が裁判権を握っていた。1333年(元弘3・正慶2)後醍醐(ごだいご)天皇方の千種忠顕(ちぐさただあき)、赤松則村(あかまつのりむら)、足利高(あしかがたか)(尊)氏(うじ)らが六波羅を攻撃、探題北条仲時(なかとき)は持明院統(じみょういんとう)の後伏見(ごふしみ)・花園(はなぞの)両上皇、光厳(こうごん)天皇を奉じて逃走したが、近江(おうみ)で敗死し、ついに六波羅探題は滅亡した。
[上横手雅敬]
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鎌倉幕府が,京都六波羅の地に設置した出先機関。南方・北方両府がある。公家政権の守護と監視,洛中の治安維持,西国の軍事・裁判・検断などの沙汰を行った。承久の乱後の1221年(承久3)6月に設置。初代探題は北条泰時・同時房。はじめは承久の乱の戦後処理を行い,京都の警備にあたった。幕府に準じて組織整備が行われ,59年(正元元)大事は鎌倉の指示を仰ぎ,小事は六波羅の専決事項とすることが定められてから,評定衆・引付方がおかれた。正安年間には検断方がおかれ,引付方から検断沙汰が移管。鎌倉が管轄する関東分との境は,時期によって変動するが,おおよそ三河・美濃・飛騨・加賀諸国であった。鎮西探題が設置されると,九州は六波羅所管から移された。歴代探題は,北条氏の得宗家・重時流・政村流・実泰流・時房流から選ばれ,執権・連署につぎ,引付頭人と同格の重職であった。
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…例外として,九州諸国の守護は最終処断・刑事裁判権を有する。六波羅探題も鎌倉末期には管轄する美濃・尾張以西(九州を除く)について検断方で刑事裁判を行うとともに,在京御家人・大番衆を指揮して京都の治安維持に当たった。なお鎌倉市中では政所も庶民の軽い犯科について検断権を有するが,侍所との関係は不明確である。…
… 検断沙汰を扱う機関は関東では侍所で,訴人が訴状を侍所へ提出すると,侍所頭人が銘を加えて(訴状の端裏に年月日と訴人名を記す)担当奉行に送る。京都では六波羅探題(九州を除き,美濃・尾張以西を管轄する)の検断方があたり,検断方頭人が銘を加えて奉行に送る。九州では守護が扱う。…
…鎌倉時代,西国に所領をもつ御家人のうち選ばれて六波羅探題に奉公したものをさす。京都に滞在する在京御家人には京都大番役を務めるためたまたま在京しているものをはじめとして,さまざまな御家人がいたが,在京人はこのうち六波羅探題に常時奉公したもので,そのことによって大番役を免除され,かわりに京都の辻々に置かれた篝屋(かがりや)の警固役を負担した。…
…これによって幕府は,今まで支配力の弱かった西国にもより深く権力を浸透させることが可能になった。また京都に進軍した泰時・時房はそのまま六波羅にとどまり,朝廷の監視や洛中警固,西国御家人の統制などに携わることになった(六波羅探題の創設)。 総じて幕府の勢力は朝廷をしのぎ,内にあっては執権政治の確立を促したが,他面,貴族・社寺一般に対する幕府の政策は寛容・温微であり,彼らの荘園領主としての地位は,ほとんど打撃を被ることなく保障された。…
…もともとは前記の仏教用語に発するもので,その論題の判定機能のゆえに幕府の裁判担当者の職名に転じたとみなされている。鎌倉幕府では東国の執権・連署が探題と呼ばれ,また西国・九州を単位としてそれぞれ六波羅探題・鎮西探題が置かれたが,その職名は通称であって,正式の職名ではなかったようである。室町幕府では幕府や関東府の管領・執事が探題と呼ばれた例はなく,それ以外の広い地域の管領権を有する職についてのみ探題と呼ばれた。…
…21年後鳥羽上皇は義時追討の宣旨を出して兵を挙げ,承久の乱がおこった。義時は子の泰時,弟の時房らを大将軍とする大軍を送り,京都を占領し,上皇を隠岐に流し,泰時・時房を六波羅探題として都にとどめ,朝廷との交渉,京都の警備,西国の政務などに当たらせた。また上皇方についた貴族・武士の所領3000余ヵ所を没収し,戦功のあった武士をそれらの土地の地頭に任命した。…
…これ以降,承久の乱(1221)までは北条時政,平賀朝雅,伊賀光季が京都守護として山城国の支配にあたったが,鎌倉幕府の山城・京都への支配力は十分に浸透していなかった。そこで承久の乱後は,北条氏の一族が六波羅探題(ろくはらたんだい)として京都に派遣されることになった。六波羅探題は洛中の警固と西国(さいごく)の訴訟を所管した。…
※「六波羅探題」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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