日本大百科全書(ニッポニカ) の解説
朝ソ友好協力相互援助条約
ちょうそゆうこうきょうりょくそうごえんじょじょうやく
北朝鮮とソ連との間に結ばれた条約で、軍事同盟条約の性格をもつ。両国は互いに友好関係を維持し、経済・技術・文化協力に努め、また一方が外部から武力侵攻を受けて戦争状態に入った場合、他方はただちにあらゆる手段で軍事的支援を提供すると規定している。1961年7月、北朝鮮側から首相金日成(きんにっせい/キムイルソン)が訪ソし、同月6日付けでソ連首相フルシチョフとの間で調印した。その背景には、1960年の日米新安保条約締結や61年5月の韓国での軍事政権発足などに対する北朝鮮側の警戒があった。条約に期限はなく、10年を経過後どちらか一方が廃棄通告をしない限り、5年ごとに自動的に更新される定めである。ただし、北朝鮮側は条約締結の際に政府声明を発表して、南北朝鮮の統一が実現したときには、それ以前に締結したいっさいの軍事条約を廃棄するとの意思を表明した。この朝ソ条約は、締結後まもなく、個人崇拝と平和共存をめぐる互いの批判を契機とする朝ソ関係の後退で空文化したが、70年代から80年代前半にかけて両国の関係修復が進むと、同条約の有効性も双方によって再確認されるようになった。
しかしながら、1985年ソ連でゴルバチョフ政権が登場したことは、「ペレストロイカ」と「新思考外交」を通じて、朝ソ関係の大きな転換点となった。88年オリンピック・ソウル大会への参加や90年韓ソ国交樹立など、ソ連の韓国に対する急接近は、経済的利益に幻惑されて社会主義の大義を裏切ったものだとして、北朝鮮側の激しい反発を招いた。91年朝ソ双方の意思により、同条約はかろうじて自動延長された。しかし、同年8月ソ連保守派軍人らが引き起こした「クーデター」の際、北朝鮮側が当初これを支持する態度を示したため、権力を回復した大統領ゴルバチョフらソ連指導部とは決定的に関係が悪化した。さらに、同年12月には社会主義圏の盟主であったソ連そのものが消滅し、北朝鮮は後ろ盾の一つを失った。翌年には大統領エリツィンが率いるロシア連邦をはじめ、独立国家共同体(CIS)の諸国との国交が改めて結ばれたが、その関係は冷えきったものであった。そして、経済援助が実質的に打ち切られ、北朝鮮の体制に対する批判が公然と現れた。
同条約についても、1992年11月韓国を訪問したエリツィンが、条約中の軍事同盟条項の廃止または大幅再検討を表明し、94年6月韓国の大統領金泳三(きんえいさん/キムヨンサム)がロシアを訪問すると、首脳会談の席で、エリツィンは、朝ソ友好協力相互援助条約を1996年に廃棄し、以後北朝鮮とはいかなる軍事同盟も締結しないことを言明した。こうして、96年9月同条約は失効した。同条約にかわる新条約締結交渉は難航したが、2002年2月朝ロ友好善隣協力条約が調印された。この条約では、かつてのような軍事同盟条項や経済協力条項は削除されており、隣国どうしの親善友好を確認しあうという関係の取り決めにとどまっている。
[並木真人]