日本大百科全書(ニッポニカ) の解説
朝中友好協力相互援助条約
ちょうちゅうゆうこうきょうりょくそうごえんじょじょうやく
北朝鮮と中国との間に結ばれている条約。北朝鮮の首相金日成(きんにっせい/キムイルソン)は、1961年7月、モスクワで朝ソ友好協力相互援助条約を締結したあと、その足で北京(ペキン)に飛び、同月11日、国務院総理(首相)周恩来(しゅうおんらい/チョウエンライ)との間で朝中友好協力相互援助条約に調印した。その内容は朝ソ条約と同じ軍事同盟条約であるが、廃棄条項には違いがある。朝中条約は双方が合意したときに廃棄される。
朝中関係は、1960年代後半からの中国の文化大革命期間中には、紅衛兵(こうえいへい)による金日成批判などを契機に悪化し、同条約も空文と化した。しかし、1969年最高人民会議常任委員長崔庸健(さいようけん/チェヨンゴン)の北京訪問と、翌年周恩来の平壌(ピョンヤン)訪問により、関係が修復された。その後、70年代を通じて、中国の対米接近に対する北朝鮮側の疑念表明のような食い違いはあったものの、基本的に同条約は有効性を維持した。80年代に入ると、中国における改革開放政策の推進と北朝鮮における金正日(きんしょうにち/キムジョンイル)への権力継承の路線に対して、両国は相互に批判を表明するなど、関係は冷却化の兆しをみせた。さらに、88年オリンピック・ソウル大会への参加以後、中国は経済発展著しい韓国に急接近し、ついに92年韓国と国交を結んだ。これは、朝鮮戦争以来の中国の対朝鮮半島政策を大きく転換させた。そして、中国と北朝鮮との「鮮血で固めた友情で結ばれた」同盟協力関係は、徐々に形式的なものへと変質していった。94年7月抗日戦争以来の中国の盟友であった国家主席金日成が死去したことは、中国指導部の世代交代と相まって、「最高の同盟国」という従来の認識を再検討させることとなった。その結果、両国の関係はいっそう沈滞の方向に向かった。90年代なかばから北朝鮮が食糧難など経済危機にみまわれるなかで、中国は南北それぞれとの関係のバランスに留意して、朝鮮半島情勢の安定化を図る政策を展開した。そのなかで、96年、同条約締結35周年を祝賀する中国の北朝鮮訪問団が、飢餓(きが)状態に陥った北朝鮮に対して大量の食糧援助を約束した。1999年には、最高人民会議常任委員長金永南(きんえいなん/キムヨンナム)(1928― )率いる代表団の訪中で関係改善に向かった。2000、01年の二度にわたって国防委員長金正日が非公式に訪中、国家主席江沢民(こうたくみん/チアンツォーミン)も2001年に訪朝、新たな食料・物資の援助を約束し、両国の関係改善は進んだ。このことからわかるように、同条約は中朝の協力関係を基本的に維持しつつ、中国が朝鮮半島に影響力を行使するための梃子(てこ)として用いられている。また、以前ほどの密接な結び付きはみられなくなったとはいえ、北朝鮮側も同条約に盛り込まれた友好関係を、体制維持のための最大の基盤の一つとして利用している。したがって、同条約が廃棄あるいは大幅に改定される可能性は大きくないと判断される。
[並木真人]