社会経済制度の異なる国が相互に平和的に生存しうるとする考え方。当初,主としてソ連圏で使われていた。マルクス主義の古典は先進諸国で同時に発生する〈世界革命〉を予想していたが,1917年にはロシア一国で革命が発生した。レーニンは20年2月にはアメリカ人記者に向かって,自国の政策は〈あらゆる民族の労働者農民との平和共存〉であると語り,21年から西欧との経済・政治関係の修復を進めはじめた。25年12月の第14回党大会でスターリンは,〈ソ連と資本主義諸国との間のいわゆる平和共存の長い時期〉が到来したと述べ,初めて〈平和共存〉に積極的な意味づけを与えた。しかし,この理論が確立されるのはスターリンの死後,ことにフルシチョフによってである。56年2月の第20回党大会で彼は,平和共存は戦術的なものではなく,〈ソビエト対外政策の基本原則〉であると述べるとともに,〈帝国主義が存在する以上戦争は不可避であるというマルクス=レーニン主義の命題〉は諸条件が根本的に変化した現在には適用できない,として平和共存の理論的根拠を明らかにした。
1960年代の中ソ論争において中国は,ソ連の平和共存政策は被抑圧民族の解放闘争への支援を放棄するものだ,と非難した。それに対しソ連は,東西の国家間の平和共存関係と,第三世界の民族解放闘争への支援とは別問題であり,後者への支援を続けることを明らかにした。他方,平和共存を否定することは,核戦争による全人類の破滅を導きかねないとする危機感から,資本主義陣営でもその必要性を説くようになってきた。1955年7月の米英仏ソのジュネーブ巨頭会談は,平和共存の原則が国際政治において実現したものと評価できる。その後も63年8月の部分的核実験停止条約の締結とホットラインhot-line(ホワイト・ハウスとクレムリンを結ぶ直通のテレタイプによる通信線)の設置など,部分的にではあるが米ソによる平和共存関係への努力がなされてきた。
1985年に登場したソ連のゴルバチョフ政権は,現在の相互依存世界では,相手の安全保障抜きに自己の安全を追求することは不可能だとする本格的な平和共存政策を打ち出し,各方面で東西間の関係改善が進んだ。
→デタント →冷戦
執筆者:木戸 蓊
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異なる社会体制をとる国が、軍事的な対立に至ることなく、平和的に共存する状態、またそのような状態が可能であることを説き、その実現を図る理論、運動、政策。資本主義と社会主義が激しく対立していた冷戦期に広く唱えられた。
平和共存の考え方の萌芽(ほうが)は、ロシア革命後のレーニンの思想のなかにみいだすことができる。たとえば1922年にソビエト・ロシアがドイツと結んだラパロ条約は、平和共存政策の嚆矢(こうし)として位置づけられている。しかし、第二次世界大戦中の西側諸国との協力期間を除いて、その後のソ連は資本主義体制への危機到来を予測し続けるとともに、両体制間の衝突を不可避と考えていたため、平和共存の理論・政策が本格的な展開をみることはなかった。46年に経済学者バルガが、資本主義経済への重大な危機の到来は少なくとも10年間はないとしつつ、両体制間の戦争はもはや不可避ではないと述べて、平和共存論的考えを明らかにした際には、「改良主義者」として激しい非難を浴びた。
ところが資本主義体制が強固に存続し、他方核戦争の脅威が増してくるなかで、ソ連では1953年のスターリンの死後、平和共存の考え方が有力になっていき、56年のソ連共産党20回大会以降、フルシチョフのもとで外交政策の基本路線として定着していった。一方、アジア・アフリカ諸国の間では、冷戦状況の深刻化につれて、平和維持のために両体制間の共存を望む声が高まり、54年6月に中国の周恩来(しゅうおんらい/チョウエンライ)首相とインドのネルー首相が発表した平和五原則のなかでも、平和共存の重要性が強調された。このように、50年代なかばから第三世界とソ連側とによって積極的に唱えられ始めた平和共存政策に対し、アメリカなどの西側諸国は当初警戒的姿勢を示したが、50年代末から60年代にかけて、冷戦からの「雪どけ」が現実に進行するなかで、しだいにそれを受け入れる姿勢を強めていった。
こうして平和共存は現代の国際関係の基本的な枠組みとなったが、その名のもとに体制を超えた大国の現状維持姿勢が強まり、小国や弱小民族の現状変革の動きが抑えられる可能性もあるなど、さまざまな問題点も指摘されている。冷戦の終焉(しゅうえん)によって、平和共存の前提は大きく変化した。しかし国際体制のなかで、異質な存在との平和的な共存を求める姿勢の重要性そのものは変わっていない。
[木畑洋一]
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社会主義国と資本主義国が,戦争を回避し,平和的に共存しうるということ。もともとレーニンがロシア革命直後に使用した言葉であるが,第二次世界大戦後ソ連の外交政策のなかで積極的に打ち出された。そこには,戦争をしなくても社会主義は経済競争で資本主義に勝利するという認識があるが,他方,広く世界的に核戦争は人類共滅をもたらすという意識があり,ほとんどすべての国が平和共存を受け入れた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…1956年2月第20回ソ連共産党大会において,1955年春書記長に就任したフルシチョフはスターリン批判を行い,スターリン死後の変化の方向を決定的なものとした。国内での非スターリン化であり,東欧諸国の引締めの緩和であり(その影響として国内のスターリン派に反対する暴動が1956年ポーランド,ハンガリーで発生した),〈平和共存〉路線の確定である。すなわち,スターリン時代の戦争不可避論は否定され両体制の共存がうたわれたのである。…
※「平和共存」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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