日本大百科全書(ニッポニカ) 「木曽氏」の意味・わかりやすい解説
木曽氏
きそうじ
信濃(しなの)国(または美濃(みの)国)木曽を発祥の地とする武士の一族。平安時代末、保元(ほうげん)・平治(へいじ)の乱に関係して「木曽中太(ちゅうた)・弥中太(やちゅうた)」の名がみえるのが初見。治承(じしょう)・寿永(じゅえい)の内乱に際しては、源義賢(よしかた)の子義仲(よしなか)が木曽氏を称して平氏打倒のため挙兵し、北陸道を経て上洛(じょうらく)した。しかし、源頼朝(よりとも)と対立し、1184年(元暦1)に頼朝の弟範頼(のりより)・義経(よしつね)に攻められ、近江(おうみ)国粟津(あわづ)(滋賀県大津市)で討ち死にした。嫡子義高(よしたか)は人質として鎌倉にあったが、脱出を図り殺害され、義仲の嫡流は断絶した。室町時代中期、義仲の後裔(こうえい)と伝える木曽氏が現れ、小戦国大名として成長する。天文(てんぶん)年間(1532~55)以降、甲斐(かい)の武田信玄(しんげん)の信濃国侵攻に伴い、木曽義康(よしやす)はしばしば戦いを交えた。しかし、1555年(弘治1)降伏し、人質として娘を甲府に送り、信玄の娘を子息義昌(よしまさ)の妻に迎えた。信玄の死後、織田、徳川、豊臣(とよとみ)と信濃国支配者が変遷するなかで、義昌はその所領の確保を図ったが、1590年(天正18)、徳川家康の関東移封に伴い、下総(しもうさ)国阿知戸(あじと)(千葉県旭(あさひ)市網戸)へ移封となった。1601年(慶長6)ごろ義昌の子義利(よしとし)の代に至り、改易となった。その後、義利は京都で剃髪(ていはつ)し、宗屋と号して諸国を漂泊したが、1639年(寛永16)伊予(いよ)国松山(愛媛県松山市)で病死した。
[郷道哲章]