末広村(読み)すえひろむら

日本歴史地名大系 「末広村」の解説

末広村
すえひろむら

[現在地名]臼杵市末広

いの村の西、末広川の中・下流両岸域に位置する。もと「玉屋河内」と称したという(臼杵小鑑)。臼杵・府内城路が通り、一里塚がある。城下近在の村とされ、一里塚の地は疫神送諷流場所・同山伏祈念所の一つであった(桜翁雑録)。慶長一一年(一六〇六)の惣御高頭御帳に村名がみえ、末広村組に属した。高八二一石余で、うち二〇二石余は稲葉通孝領であった。また同帳は村役人に新右衛門など六人を記す。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳では田方六〇九石余・畑方二一一石余、水損所・日損所、「柴小松山有」とある。正保郷帳でも同高で臼杵庄に属した。寛永一一年(一六三四)の郷村高付帳(臼杵藩政史料)では末広村組(一一村)に所属、のちには当村と久木小野くぎおの村・中川なかのかわ村・松原まつばら村・かよい村の五村で末広組を構成した。同組を管掌する庄屋が在村、慶長一一年には末広村組惣庄屋は彦右衛門・治右衛門であった(惣御高頭御帳)


末広村
すえひろむら

[現在地名]三原市沼田東ぬたひがし町末広

惣定そうじよう村の東にあり、南は沼田川の支流天井てんじよう川で釜山かまやま村と接する。天井川沿いと村の東部に低地があり、北は丘陵性山地で納所のうそ村に接する。中世には沼田庄安直あじか郷のうちであった。室町時代の小早川氏一族知行分注文(小早川家文書)に末弘八〇貫文とあり、小早川氏一族末弘氏の墓と伝える南北朝末期の宝篋印塔残欠(笠・相輪)とうおかにある。

安芸国豊田郡に属し、元和五年(一六一九)の安芸国知行帳では阿鹿あじか村に含まれるが、同村内の他の地区が寛文八年(一六六八)の地詰により分村しているので、当村も同じ頃分村したとみられる。


末広村
すえひろむら

[現在地名]安富町末広

南流する安志あんじ(現林田川)の両岸に位置し、南は名坂なさか村。東岸に角屋かどや上垣内うえがいち、西岸に小林こばやし渡辺わたなべ、西流して安志川に合流するなかたに川沿いに中ノ谷の集落がある。領主の変遷は延宝七年(一六七九)まで安志村と同じ。同年幕府領、宝永二年(一七〇五)幕府領林田藩預地、正徳四年(一七一四)幕府領、享保元年(一七一六)安志藩領となり(「宍粟郡領主記」東京大学史料編纂所蔵)、幕末に至る(旧高旧領取調帳など)。江戸時代前期の検地年次は安志村と同じ。


末広村
まびろむら

[現在地名]厚岸郡厚岸町末広

明治初年(同二年八月から同六年の間)から明治三三年(一九〇〇)まで存続した厚岸郡の村。床潭とこたん村の東、厚岸半島南部にあり、全域が丘陵地、南は海に面する。近世にはアッケシ場所のうち。明治初年マヒロなどの地を包含して成立。初めマヒロ村と記され、明治八年五月村名表記は末広と漢字に改められた(開拓使根室支庁布達全書)。マピロともよばれる(大小区画沿革表)


末広村
すえひろむら

[現在地名]五所川原市米田よねだ

津軽平野北部、東南水野尾みずのお村、西は唐笠柳からかさやなぎ村、南は真黒屋敷まぐろやしき村、北西米田よねた村に接する。

元文二年(一七三七)検地帳に田方一二町五反六畝四歩・畑方一町五反一畝二〇歩、田畑屋敷合せて一四町七畝二四歩、村高八一・〇七五石とある。同年俵元新田の一つに数えられ、享保一二年(一七二七)の村位は下で、石盛は四ツ成であった(平山日記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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